地の塩、世の光 マタイによる福音書 5章13~16(流星)(聖書の話25)

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

(マタイによる福音書5章13~16)

今回の聖句はイエス様が弟子たちにむけて伝えた言葉だ。
地の塩、世の光。「自分は料理を支える塩です、世を照らす光です」。なかなかそんな大それたことを自信満々に言える人はいないだろう。けれど、イエス様はあなたたちにはそうなれる可能性があるのだと弟子たちに伝える。自分はそういうレベルのことをやろうとしているのだ、というイエス様の思いがそこにはある。追い求めるべき理想に妥協しないということ。虚栄心やエゴイスティックな成功への想いではなく、本当に大切なことや真理を求めて行く時に、妥協のない理想、後ろめたくない理想というものが見えてくる。
僕自身、自分の音楽活動を思えば、「後ろめたさ」がつきまとう理想にすぐ引き込まれてしまうなと感じる。そういう活動は、だいたい光を放たない。頑張っても行き止まりなのだ。
厳しい現実の中でも、一点の曇りもない理想を追い求める決意。その先にこの私たちのような小さな存在が光を放つという奇跡が起こるのだと思う。

随分大きな風呂敷を広げたような気分。しかし、それはわたしたちに今日起こる出来事だ。会社の中で、友達との関係の中で、学校でのクラブ活動や学園祭で、あるいは家庭の中で、わたしたちは責任をもって、人の前に立つ事がある。「あの時ちゃんと言えばよかった、そしたら傷つけたりせずにすんだのに」というようなことがたくさん起こる。分かっていたのに、気付いていたのに、それ以上の言い訳に目を閉じてしまう。その一言を言えるか言えないか、そんな小さな瞬間に「塩」となり「光」となるという事が起こる。
それは、流れ星が流れるような小さな光かもしれない。その光を放つためには少なからず勇気が必要だとも思う。それでも、その輝きは、それを目にした人をはっとさせる輝きだ。

「本当に大切なことや真理」を求める事。「塩」となり「光」となる事。それは、神様の存在を示す行為だとイエス様は言う。

みなさんが、そして僕自身も、神に喜ばれるような、強い理想をもって生きていけますように。そんな事を思いながら、今回は「流星」という曲の歌詞を紹介する。

「流星」

広がる夜景は 瞬く暮らしを集め
僕らは溺れて 見失って流星を待った

無力な僕らあざ笑うかのように

君だけの 僕だけの 君にとっての 僕にとっての
特別 大切 予期せず夢中になった

流れる星ふたつ 追いかけるように

小さきものだけど 切り裂く 闇を抜け 光る線を描いた
小さき僕らは 切り開く 未来へ向け 光る線を描くよ

転がる毎日は 些細な思いを潰す
僕らは恐くて 目を伏せて流星を待った

無力な僕らあざ笑うかのように

君だけの 僕だけの 君にとっての 僕にとっての
特別 大切 予期せず夢中になった

流れる星ふたつ 追いかけるように

小さきものだけど 切り裂く 闇を抜け 光る線を描いた
小さき僕らは 切り開く 未来へ向け 光る線を描くよ
小さきものだけど 切り裂く 闇を抜け 光る線を描いた
小さき僕らは 切り開く 世界へ向け 光る線を描くよ

わたしのもとに来なさい マタイによる福音書 11章28節~30節(聖書の話26)

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

(マタイによる福音書 11章28~30)

イエス様の言葉として書かれている今回の聖句。「休ませてあげよう」という言葉が魅力的だ。しかし、どうも「簡単に楽が出来る」と言うことではないらしいという直感が働く。その謎もさぐりながら、聖句を味わってみよう。

聖書の難しさの一つは、その言葉が訳語であることに起因する。例えば、「柔和で謙遜な者」と自分のことを表現する人物に「謙遜」を感じるのは難しい。いろいろと調べて「抑圧にめげない者、心底身分の低い者」(本田哲郎:小さくされた人々のための福音)という訳を見つけて、素敵だなと思った。きっと本当にイエス様は「柔和で謙遜」だったように思う。でもここでは、私たちが目指すべき人格の目印としてこの言葉を読むべきかもしれない。「私は徹底的に身分の低い者として生涯を生きる。その私に従い、そのように生きなさい」とイエス様は言うのである。そこに安らぎが生まれると言うのである。イエス様の言葉にはよくこういうねじれが生じている。「後の者が先になる」のである。そしてそれは真実でもあると思う。例えば、本当に人に仕えることが出来る人が、気がつけばリーダーになるということが起こる。
もう一つの難しさは聖書の世界との生活環境の違い。「軛(くびき)」という言葉を私たちは生活の中で使わない。調べると「軛」とは牛や馬に車を引かせ、働かせる時に、車の先から牛や馬のくびにあてる横木の事らしい。

直感は正しかった。「休ませる」と「軛を負う」との間には、ある違和感がある。「働かなくていい休み」ではないのだ。働いていては休みにならないではないか。休ませてくれるのではないのか。

聖句をもう一度始めから読み、視点を動かしてみた。私たちが疲れを感じ、重荷を感じるのはどのような時だろう。忙しくても疲れない、大変でも重荷を感じない時というのが確かにある。人生を積極的に歩む時に、目的と意義を与えられると、そこに平安があるということを経験する。休めないのは、働いているからではなく、「何のために」働いているかを見失っているからかもしれない。

時々、「宗教は人生にやってはいけないことを作るので窮屈ではないですか」と問われる事がある。「やるべきこと」ばかりを押し付けられるという印象なのかもしれない。そう思うと確かにそれは軛だ。しかし、「こう生きるべきだ」から「こう生きたい」へと心が変わると、日々は自由で平安なものへと姿を変える。こう解説すると「なんだ、洗脳されるってこと?」と反論が返ってきそうだが、必ずしもそういう事でもない。僕が思うに、イエス様の「軛」とは、「愛する」ということではないだろうか。人に仕え、愛せる存在となった時、感謝され愛される人生が実現していく。そして「愛せない存在から愛せる存在への喜びと平安」が与えらるということをこの聖句は言っているのではないだろうか。

聖句を読む私たちは、メッセージの受け手として、自分を誰だと考えているのだろう。疲れた者、重荷を負う者といった受け手が今回の聖句の中からは読みとれる。少し遡れば、「知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」(マタイ11:25)という表現も。
この文章を読む人の中にも、本当にいろいろな人がいるだろう。状況も自己認識も様々。それでも、自分の中に足りなさを感じ、救いを求めているなら、その答えを与えようとイエス様は人生を賭けて呼びかけて下さっているのだと思う。自力に拘り、弱さを認めない頑な心では、なかなか素直に受け入れにくい聖句かもしれない。疲れを認め、幼子のような素直さで耳を傾けるべきなのかもしれない。その先で、「休みたい」と思っている人には休み与えを、一生懸命生きていきたいと思っている人にはその道を示して下さると思う。その道の上で柔和で謙遜な人格として育てられることもきっとあるだろう。

全ての人たちは幸せになりたくて一生懸命生きている。そのことを思うとき、このメッセージに洗脳ではなく真実を、排他性ではなく普遍性を見いだす。少なくとも、私たちはイエス様のメッセージに出会った。全ての人にイエス様は「わたしのもとに来なさい」と言われる。それは全ての人に向けられた招きの言葉だと思う。

幸いに至る道を歩ませ、魂に安らぎを与えるものは何か。私たちの重荷を取り除くものは何か。私たち自身の中にある知恵ある者と幼子のような者がその問いを投げかけられていると思う。

風はおもいのままに吹く ヨハネによる福音書 3章8節(聖書の話27)

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くのかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」

(ヨハネによる福音書3章8節)

僕にとっては、表現として、言葉として、すでに魅力的な聖句である。確かにわたしたちは「風」を感じる事はできる。しかし、本当はその風がどこで生まれ、どこで消えてしまうのかを知らない。「風はおもいのままに吹く」という言葉に、物事の本質が隠されている予感と自由の香りが漂う。

僕が高校で行っている授業の一年間のテーマは「生命(いのち)」なのだが、毎年、この聖句を自分のキリスト教学の授業を説明するために紹介する。生命について考える事は「風に思いを巡らせるようなこと」「答えのないことについて考えること」だと思うのだ。今年度の授業も始まったこの時期、いい機会なので、この聖句を味わってみることにした。

この聖句はニコデモというファリサイ派の議員とイエス様の対話の中で、イエス様の言葉として紹介されている。30歳くらいだったと思われるイエス様より、随分年上で、社会的にも地位があったであろうニコデモは、「永遠の命」が欲しくて、イエス様に頭を下げて、教えを請う。しかし、イエス様にかなり厳しいことを言われることになる。「新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネによる福音書3章3節)。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことも分からないのか」(ヨハネによる福音書3章10節)。こてんぱんなのである。文脈で理解すると、「風を感じる事ができてもその全ては分からないように、神の世界のこと、霊の世界のことはお前にはわからないのだ」とイエス様はニコデモに伝えようとしておられる事になる。

僕が、この聖句に魅力を感じたのは、自分の命が風のように自由に飛び回るイメージが湧いたからかもしれない。しかし、聖句は風を感じる受け手としてわたしたちを位置付けている。わたしたちに全てを見せず、自由に吹いているのは神の側にある者たちだ。永遠の命が欲しい、天国のことを知りたい、命の不思議を理解したい。そういったわたしたちの欲求を、イエス様は一蹴する。

ギリシャ語でもヘブライ語でも風と息と霊は一つの言葉で言い表される。なので、「風の音を聞く」という表現には、「霊の声を聞く」というようなニュアンスがあるらしい。

はたと、全てを知ることは出来ないが、霊の声を聞くことは出来るのだと気がついた。わたしたちは霊の声を聞くことが出来る。しかも、かすかに聞き取れるとか、不確かだがそうかも知れないというような状況ではなく、はっきりと聞く事ができる。なぜなら、それはイエス様の口からしっかりと語られるからだ。
今回の聖句が含まれるヨハネによる福音書の3章を読むと、年をとって新たに生まれる事など無理だと嘆くニコデモにイエス様は、「水と霊によって新しく生まれることで神の国に入れる」と伝えようとされている。
注解書を読むと「水と霊」はバプテスマのことを指すという解説に出会う。洗礼によって信仰を授けるときにキリスト教では浸水を行うのだ。
もちろん、「はっきり言っておく」とイエス様が語り出しても、難しくて分からないことだらけなことも多い。それでも、人の口から発せられる言葉を聞き、理解する事は、神様からの声を魂で感じ理解する事に比べれば、随分易しいことだと思うのだ。そのためにわたしは来たのだとイエス様は言う。わたしたちには捕まえることが出来ない自由に吹く風をその体にとどめて、そこに立って下さる。わたしたちはその声を聞くだけでいいのだ。そして、その声を聞くことによって、少しずつ変えられて行くように思うのだ。霊によって生まれる者へと変えられて行くように思うのだ。

わたしたちは確かに今「生命」を与えられている。僕も、自分が生きているということ、自分の中に生命があるということを確信している。けれど、その生命がどこから来てどこへ行くのかを知る事はできない。
イエス様の声に耳を傾け続ける事で、いつか、わたしたちも霊から生まれたものとして、最初に感じた、風のように自由に飛び回ることを許されるのかもしれない。そんなことを思った。

待ち望む マルコによる福音書 14章36節(聖書の話28)

「こう言われた。『アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。』」

(マルコによる福音書 14章36節)

この間、久しぶりに「Waiting for a chance」という曲を歌った。10年以上前に書いた曲だ。50歳も近づき、30代の頃とは随分歌詞の見え方も変わっていることに気付く。未来の描き方も変わるからなのだろう。
「Waiting for a chance」を和訳アプリなどで訳すと「チャンスを待っている」という訳が出てくる。「waiting」で「待機」という訳も。でも、なんだかしっくりこないなと思っていた時、その曲のタイトルを、「待ち望む」という気分で歌うのは、なかなかいいなあと感じる文章に出会った。

ヘンリ・ナウエンの「待ち望むということ」という文章だ。

現代は待つ事を困難にした、と筆者は語る。待てない理由は、恐れがあるからだ。変わり続けなければいけない、攻め続けなければいけないという強迫観念がわたしたちの時代にはあり、そのことが、待つ事への恐怖を大きくしているという分析は、なかなか鋭いものだと感じる。自分自身も、その恐れによって「待てない」ということがしばしばある。
何もせずにいることと「待ち望む」こととは大きく違う。筆者は聖書の登場人物たちを例にあげ、こう語る。「待っている人々はとても積極的に待っています。彼らは、待ち望んでいるものが、自分たちが今いるところで育ちつつあることをよく知っていました。まさにここに、待つことの秘訣があります。」(ヘンリ・ナウエン/わが家への道/工藤信夫訳)
未来を自分の思い通りにしようとする「願望」は、それが叶わないことへの恐怖を生み、待つ事を難しくする。しかし、神との約束の実現を信頼する「希望」は、未来に対する開かれた態度を生み、待ち望むことに力を与える。待ち望むことは、今を生きることに繋がる。
ヘンリ・ナウエンの語る「待ち望む」ことは、随分積極的だ。

表現者の友達にこの話をすると、「人事を尽くして天命を待つ、やな?」というシンプルな答えが返ってきた。確かにそうだ。自分の作品へのアイデアを探して探しぬいて、くり返しイメージを組み立てて、その努力の先で、新しい作品が生まれてくるのをずっと待っている。絞り出すようにもがいてみても、結局は待つしかないのだ。創造という行為は、宗教的な行為だなと思う。開かれた態度で臨むときに、たとえ予想外な結果であっても、生まれて来た作品を受け入れることが出来る。

今回の聖句は十字架にかかる直前に、ゲツセマネでイエス様が神様に祈った時の言葉だ。願望と希望の間で揺れ動く心が読み取れる。この後、弟子の一人、ユダに裏切られ、十字架につけられ、死ぬことになるイエス様。十字架にかけられたイエス様は完全に受け身だ。もはや、なにもすることが出来ない。しかし、その中にあって、イエス様は「積極的に今を生きている」と感じさせられる。それは、全幅の信頼を神に寄せて、自分の死の意味を神に委ねて「待ち望む」姿なのだと思う。

絶望を越える希望があるということを信じて、待ち望める人でいたいなと思った。

目を上げれば 詩編 121篇1節~2節(目を上げれば)(聖書の話29)

目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
わたしの助けはどこから来るのか。
わたしの助けは来る
天地を造られた主のもとから。

(詩編 121篇1~2節)

今回の聖句が伝えているのは、視点の変換とその先に必ず見つかる希望への約束だ。
絶望の中にあって、閉じてしまった世界を動かし、そこから抜け出すためには、見ていなかったものに目を注ぐ必要がある。
うつむいてしまっている自分を奮い立たせて顔を上げ、やってくる助けを受け取る準備をしろと聖句は言う。そして、必ず、神からの助けは来るのだという強い信仰が感じ取れる。

それは、本当のことだろうか。どんなに望んでも助けがこない経験をした人も沢山いるのではないだろうか。しかし、同時に、何も状況は変わらないのに、自分の物事への見方が変わる事で、全てが解決したり、解決の糸口をつかむ経験をする事も事実だ。
わたしたちは、知らない間にうつむいてしまってはいないだろうか。何かにおびえて目を閉じたり、疑いの心で本当のことを見失ったりしてはいないだろうか。

目を上げよう。

それは、小さな変化かもしれないけれど、きっと、新しい発見があるように思う。「目を上げれば」という曲を書いた。今回は、その歌詞を紹介したいと思う。

「目を上げれば」

出来ない事ばかりで情けなくなってる 時間だけが過ぎてく
抱えきれないくせに強がりな僕は  助けて欲しい事を 本当に伝えようとしたかな

誰かがそばにいて 誰かと目が合って
笑い合える幸せに気付けば やがて全てはかわる

進まない毎日が嫌になってくる 約束は置き去りに
うまくいかない事に焦ってる僕を  取り囲むものは 本当に駄目な事ばかりかな

誰かがそばにいて 誰かと目が合って
愛し合える幸せに気付けば やがて全てはかわる

難しいことじゃない 沈む思い断ち切って 目を上げれば

今 君ががそばにいて 今 君と目が合って
笑い合える幸せに気付いて 確かに全てはかわる
誰かがそばにいて 誰かと目が合って
愛し合える幸せに気付けば 確かに全てはかわる

神様から響いてくるもの 詩編 19章2節~5節(聖書の話30)

天は神の栄光を物語り
大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え
夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく
声は聞こえなくても
その響きは全地に
その言葉は世界の果てに向かう。

(詩編19章2節~5節)

僕は同志社高校でキリスト教学の授業を担当させてもらっている。ここ数年、キリスト教学特論というゼミのような選択授業が開講されていて、その授業で日本人の宗教観について学ぶ機会を得ている。日本古来の八百万の神を信じる信仰やアニミズムについて学生たちが発表するのだが、非常に興味深く思う事は、唯一神のキリスト教よりも、日本古来の信仰に、より親しみを覚えるという学生が多い事だ。
四季に恵まれ、自然が人間の生活に寄り添うこの国においては、神様を優しくただそこここに存在するものとして理解する方がしっくり来るのかもしれない。対して、砂漠の世界から生まれてきたキリスト教が感じ取る神様は、その生活を崩壊させるような自然の姿に似て、時に厳しく、裁きをもって人間に接してくる訳で、少し怖いし、面倒くさいものなのかもしれない。そういう意味では、キリスト教の神様は、日本の風土にはなじまないという意見も頷ける。

さて、今回の聖句だが、注解書などを読むと、「宇宙に与えられた神的秩序の賛美」である、というような表現が目につく。「古代世界の人は自然の中の音に耳を澄ましてそこに神の言葉を得てきた」のだという。現代の人々は、その言葉を聴き取る力を失っているという解説もある。
事実、わたしたちは自然に耳を澄まし何かを聴き取る力を失ってきているように思う。日本の宗教観へ共感する学生以上に、神様などいないと答える学生の多さには驚かされる。そして、何よりも、真実はどこにあるかを探求する事自体に興味がない人が増えているように思えるのだ。

経済的な安定が約束されているならば特に真実など必要がないという感覚。あるいは、世界は全て相対的であり自分にとっての真実があるに過ぎないという考え方。自分に一番都合のいい宗教を必要に応じてその都度選択し、社会の中で上手く立ち振る舞えればそれでいいという考え方。

けれど、本当は神様がいるかもしれないのだ。絶対的なことが存在するかもしれないのだ。全ての人にとっての真実があるかもしれないのだ。そう思うとやはり探求したいと僕は思ってしまう。そして、真実を確信し、真実に繋がる喜びを享受したいと思うのだ。

今回の聖句は、絶対的な存在としての神様に圧倒される人間の心を歌っている。「わたしたちが神様を感じるのはいつか」という問いに、この聖句は答えてくれる。「神様の声を聞きたい、できればしっかりとした言葉で」と思ってもそれはなかなか叶わない。けれど、たとえば空を見上げることで、神様の存在を一瞬にして感じとることもある。それは、本来誰にでもある感覚だと思う。美しい夕日や満点の星空や空を切り裂く稲光に、わたしたちは足を止め見とれる。そこには、創造主への予感があり、畏怖があるのではないだろうか。
神様から響いてくるものに耳を済ますことができる人でいたいと思う。

小さな祈り マタイによる福音書 6章34節(小さな祈り)(聖書の話31)

今回は、日々の生活の中でよく思い出す聖句を選んだ。

「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

(マタイによる福音書 6章34節)

好きな聖句だ。楽観的とはまた違う希望を感じる。一日の終わり、明日の事を心配しそうになるときに、「明日自らが思い悩む」という言葉に、なぜか励まされる。「未来が、自分の味方をしてくれる、一緒に思い悩んでくれる」そう感じるからかもしれない。それはつまり、未来を司る神様が、一緒にいて下さるという予感からくる希望だ。

僕は、比較的むちゃな締め切りを抱えてしまうことが多い仕事をしているのだが、「今日必ずやるべきこと」だけを、一生懸命やるようにしている。もちろん、計画することは大切だし、毎日、精一杯生きる事は前提だが、時々、まだ見ぬ未来におびえて、必要以上に心配をして、ドキドキしたり眠れなくなったりする。精一杯その日を生きたのに、そこには確かに成果は上がっているのに、その一日が終わるときに、感謝を忘れてしまうくらい不安に心を奪われてしまったりするのだ。

このブログでの「聖書の話」シリーズの第1回は、主の祈りを取り上げた。祈る方法と主の祈りの内容についてのお話だった。
「神様」と最初に神様に呼びかけ、祈る。そして、自分の祈りの言葉の最後に「本当に」という意味の「アーメン」という言葉を加える。そうすると、それは神への祈りとなり、どんな小さなことでも、どんなに下手な言葉でも、神は耳を傾けて下さるという祈る方法の話。あの回で、「主の祈り」は、本来、毎朝祈られるべき祈りだと書いた。「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と生活に必要なものを毎朝一日分神様にお願いする。毎朝祈る事によって、生涯、神に守られる人生が約束されているということを学んだ。

私たちは、毎朝、今日一日を守り、豊かにしてくださいと祈る方法を与えられている。そのことを思う時、今回の聖句は、一日の終わりに私たちが何を思い、どのように祈ればいいかを教えてくれているように思う。

「小さな祈り」という曲を30代の初めのころに書いた。一日の終わりの曲だ。その歌詞を今回は紹介しようと思う。

小さな祈り

おやすみ 一日の疲れを癒す眠りにつこう
おやすみ 喜びもそして悲しみもとめどないけど

深い眠り与えられますようにと求めて
悪い夢を見ないようにと祈ろう

おやすみ 一日の疲れを癒す眠りにつこう
おやすみ 毎日はとても短く早すぎるけど

明日もまた良い日でありますようにと求めて
今日も守られて感謝しますと祈ろう

おやすみなさいと小さく祈ろう

自分を愛するように ルカによる福音書 10章25節~28節(アイ・ラブ・ユーでユー・ラブ・ミーでアイ・ラブ・ミー)(聖書の話32)

すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」

(ルカによる福音書 10章25節~28節)

イエス様と律法の専門家の会話だ。二人の問答は「永遠の命を受け継ぐためにはどうしたらよいか」がテーマだ。
「永遠の命」とは何かという問いは非常に難しいのだが、一番いい形の命、目指すべき命のあり方くらいに考えてもらえばいいかもしれない。そして、その答えは「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」だと聖句は告げている。この言葉は旧約聖書からの引用。神様からの教えが書かれた当時の聖書の中から、申命記6章5節とレビ記19章18節を抜き出し、律法の専門家が的確に即答しているのだ。イエス様は「正しい答えだ」と言う。当時の律法の中心にあった十戒を受け身的に守るのではなく、「愛する」という行為で積極的に生活する中で、自然に十戒を守るという視点の転換、律法主義からの脱却が感じられる問答だ。

さて、この答えには三つの愛する対象が出てくる。神、隣人、そして、自分だ。
神様に愛されていることを信じて、神様に感謝し、神様を愛する。そして自分を愛するように隣人を愛する。

最近、僕は、この聖句が当たり前だと思っていることが、実は当たり前ではなくなってきているという現実があるのではないかと思うようになった。「自分を愛するように」という問題だ。現代は、なかなか自分を愛せないという人が増えて来ているのではないかと思うのだ。
人は愛するということと愛されるということを、時にごちゃ混ぜに考えてしまう、という話を、このブログでも何回か書いているが、この二つは全然違うことだ。愛されたいと思っている気持ちがどんなに強くても、愛されているという確信がなければ、愛する力にはなかなか繋がらなかったりする。
自分が愛さていることを信じられれば怖がらずに愛せるのに、一度愛されていることに疑いを持ってしまうと、なかなか愛することが出来ない。アイ・ラブ・ユーと伝えることに勇気が必要になってしまうのだ。自信が持てなくて、愛せなくなり、愛せないから愛されなくなる。悪循環の中で、自分を好きだと胸を張って言うこと、自分を肯定することが出来なくなって行く。

僕は友人から「原田は自分大好きやなあ、アイ・ラブ・ミーやな」とよく笑われる。本当に恵まれて愛されてきたからだと思う。最初は恥ずかしかったのだが、アイ・ラブ・ミーであることは現代においてはメッセージかもしれないと思うようになった。
一人きりでアイ・ラブ・ミーになれるほど、人は強くない。誰かからのユー・ラブ・ミーを信じられたときにアイ・ラブ・ミーということは生まれてくる。そしてそのためにはやっぱりアイ・ラブ・ユーを伝えななければならない。そんなことを考えていたとき、一緒に音楽をやっているメンバーから、「それこそ曲にすべきテーマやで」と言われた。

今回は「アイ・ラブ・ユーでユー・ラブ・ミーでアイ・ラブ・ミー」という曲の歌詞を紹介しようと思う。こっぱずかしい内容だが、歌っていうのは、不思議で、メロディーに助けられると、歌うことによって恥ずかしさが消えて、言葉が不思議と心に入ってきたりする。
お互いを指差しながら、この曲に合わせてお客さんが「アイ・ラブ・ユー♪」と歌ってくれる時、人って、本当は愛する事がこんなに好きなんだなと思うことがある。みんな本当に幸せそうな顔なのだ。ステージからのその景色はすごく素敵だ。ほんの少しの事で、悪循環は終わりを告げる。自分を愛するように隣人を愛せるようになれますように。

「アイ・ラブ・ユーでユー・ラブ・ミーでアイ・ラブ・ミー」

アイ・ラブ・ミーで行こうよいつも アイ・ラブ・ユー君へと贈る
アイ・ラブ・ミー愛する心は ユー・ラブ・ミーに支えられてる

生まれてきた事の意味や 生きていく事の意味 そんなこと分からないけど
ありがとうは嬉しくて 君のことが大好きで 戦争なんか大嫌い それで大丈夫

アイ・ラブ・ミー寂しい夜にも アイ・ラブ・ユー世界へ贈る
アイ・ラブ・ミー愛する心で ユー・ラブ・ミーを喜んでいる

僕らを創った何かはあるか 終わりの向こうは何か  その全て分からなくても
優しくなれたら幸せで 役に立つの大好きで  傷つける嘘大嫌い それで大丈夫

アイ・ラブ・ミーで行こうよいつも アイ・ラブ・ユー君へと贈る
アイ・ラブ・ミー愛する心は ユー・ラブ・ミーに支えられてる
アイ・ラブ・ミー寂しい夜にも アイ・ラブ・ユー世界へ贈る
アイ・ラブ・ミー愛する心で ユー・ラブ・ミーを喜んでいる

アイ・ラブ・ミー

アイ・ラブ・ユー ユー・ラブ・ミー アイ・ラブ・ミー

希望のある苦難 ローマの信徒への手紙 5章3節~4節(聖書の話33)

そればかりでなく苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。

(ローマの信徒への手紙 5章3節~4節)

この聖句を書いているのはパウロという人だ。イエス様の直接の弟子ではなく、むしろイエス様の死後、弟子たちを迫害する側にいたユダヤ教徒だったパウロは、神秘体験の後、回心し、キリスト教徒として多くの手紙を聖書の中に残した人物だ。
パウロの文章は、教義的で、厳しいイメージがあり、難しく、堅苦しいという印象を僕は持っていたのだが、今回の聖句は受け入れやすく、魅力を感じる。ポジティブで、人生に役に立ちそうなにおいがしているからかもしれない。クリスチャンで無くとも納得出来る、普遍的な格言のようにも思える。

キリスト教とは何かということについて、書き記されたこの手紙の中で、今回の聖句は信仰生活の特徴について語っている箇所だ。その流れの中で神学的に語句の意味を探ってみた。
「苦難」は信仰の故にうける迫害、犠牲、痛苦。キリスト者に臨む特殊な艱難。
「忍耐」は信仰的に動揺しないこと。屈せず神の道を行う積極的行為。
「練達」はキリスト教徒がその信仰を試されることで得る信仰的確信。
「希望」は信仰によって義とされた者が終わりの日の輝かしい完成に連なるという希望。

イエス様を信じることで迫害されても屈せずにイエス様に従っていけば、どんどん救われている確信が強くなり、天国があること、天国へと導かれている事を喜べるようになるのだ、という感じだろうか。

語句の意味を理解すると、今回の聖句がきわめてキリスト教的な信仰者の生活へ向けられた言葉であることが分かって来た。イエス様の十字架での死と復活が自分の罪の身代わりだったことを信じ、その復活に置いて神様に救われ、自分がただしい者に変えられたことを信じる、「キリストによる信仰による義」をまず心から受け入れ、喜び、理解する、その先での信仰生活の話だ。

随分難しい話になってきた。しかし、パウロという人物をイメージしてこの言葉を読む時に、救われたという癒しから、信仰生活の実現の厳しさへと深まっていく日々に叫び声をあげている等身大のパウロの姿が見え隠れしていることに気付いた。キリスト者の苦難とは普通なら感じなくともよい苦難であり、その先に練達と希望があることをパウロは強く認識しており、それが信仰者の全てに約束されていることを伝えようとしているのだ。やっぱり、教義的で、厳しいイメージがあり、難しく、堅苦しいのだが、必死に自分に言い聞かせながら手紙を書いているパウロを思い描いて、パウロに出会えたような気分になった。

パウロが「ローマの信徒への手紙」を書いたのは、おそらく30代に起こった回心から20年後くらい、三回目の伝道旅行の最中だったと思われる。つまり、だいたい50代の半ばくらいだったと推測される。今の僕とほぼ同年代。少し先輩だ。

この箇所は毎日の祈りであり、約束だ。自分を含めて、信仰者を励まし、導こうとするパウロは、決してこの言葉が実現していない信仰者を攻めているのではないだろう。しかし、同時に厳しい積極性を要求していることも事実だ。それは行為による確信を促すパウロの愛とも言える。

さて、私たちの人生には苦難と言えるようなものがあるだろうか。それは、人それぞれかもしれない。苦難だと感じている同じ出来事も別の人にとっては苦難ではないかもしれない。それは本当に個人差がある。しかし、同時に苦難のない人生もまた想像できない。おそらく私たちは人生の中で苦難に出会うことになるだろう。
その苦難には二種類あるのではないだろうか。「希望のある苦難」と「希望のない苦難」。

最後に残った語句として「誇り」について調べていて、ドイツのエルンスト・ケーゼマンの「人間は誇りにおいて自分が誰に属しているかを表明する」という解説を見つけた。
苦難は出来れば願い下げたいところだが、信仰者として救われて来た僕は、同時にこの「希望のある苦難」を、喜びを持って誇りとすることをパウロに勧められているのだと感じた。

思い悩むな マタイによる福音書 6章31~33節(聖書の話34)

「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」

(マタイによる福音書  6章31-33節)

今回の聖句は、神様が必ず助けて下さるという、その確信、その信頼を自分のものとする方法について、「まず、神の国と神の義を求めなさい」と語る。神の国で喜ばれる生き方を探し、神が正しいと示してくれる「神の義」を求めてみなさいと言うのだ。
それでは、 神の国と神の義はどうやって求めればいいのか。信仰者でない人にはがっかりな答えかもしれないが、それは、教会に行く事、聖書を読む事、お祈りをする事に始まる。その生活の中で進むべき道が示されていく。神様からのご利益で判断し、信じるのではなく、何も答えが見えていないときに、それでも、神様にすべてを委ねれば、あとから全てが与えられると聖句は語る。

先日、クリスチャンでない友人と話をしていて、「どうも、ハラダの話は、神様が大前提になっていて、ついていけない」と言われた。人生の不条理について話をしていたのだが、僕の話には、どこか、楽観的な所があると彼は言うのだ。彼は、人生で起こる理不尽を見渡すときに、やっぱり「神様がいるとしたら、いったい何をしているのだ」という思いを抱いてしまうらしい。「大丈夫、神様がなんとかしてくれる」と言う事さえ憚られるような現実はたくさんあるという指摘だった。
確かにその通りだ。表面的にこの世を支配しているのは神様ではないのだと思う。お金に対する人間の欲は愛よりも強く、権力を求めて理不尽に世界を操作しようとする者が成功していくようにも見える。
しかし、その奥に、やっぱり神様の支配、真実の勝利があるのではないかと僕は思う。長い時間をかけて結局は悪が裁かれることや、大金持ちなのに幸せについて全く知らない人がいることを私たちは知っている。貧乏だけど正しく生きた人が何一つ足りないものがない幸せな人生だったと語る場面を目にする事もある。

楽観的だという指摘を否定するつもりはない。と同時に、今回の聖句が約束することを信じる力は、究極のところでは僕にはないかもしれないとも思う。今までの人生はただラッキーだっただけで、本当に大変なことが起こったら、信仰どころではなくなってしまうかもしれない。あー、やっぱり神はいない、人生は絶望だと嘆くかもしれない。

しかし、この言葉を語ったイエス様は実存的に今回の聖句が真実だということを示してくれている。私たちは、教会に行き、聖書を読み、お祈りをする事で、イエス様がどのような生涯を過ごしたかを知ることが出来る。絶望するには十分な状況をイエス様は生き抜いて行く。経済的な不安はもちろんのこと、理不尽きわまりない出来事がイエス様を次々に襲っても、イエス様は進む道を変えない。祈り、神様の声に従い生涯を全うする。
そして、その生涯は、2000年経った今も学ばれ、イエス様が伝えたこと、伝えたかったことは今日も世界で語られている。イエス様は決して楽観的で世間知らずの詩人ではなかった。今回の聖句の裏側に、決意と勇気が隠れている。「きっと神様は自分の人生を無駄にはなさらない」という信仰が隠れている。まだ見ぬ未来への不安を振り切るイエス様自身の決意表明が隠れている。

その決意と結果こそがご利益を大きく上回る私たちへの恵みなのだと気付かされる。信仰者であろうとなかろうと、イエス様の歩まれた道を辿る事が私たちにはゆるされている。イエス様の生涯はすでに起こった出来事だからだ。確かにそこに道があるという安心感。険しく厳しい道ではあるだろうが、不完全ながらも、その道を辿り、思い悩まない人生を歩んで行くことが全ての人に向けて開かれているのだと思った。

体のともし火は目 ルカによる福音書 11章33節~36節(KEY)(聖書の話35)

「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」

(ルカによる福音書 11章33~36節)

秋になると、職場の高校の学園祭があり、時々、演劇祭の審査員の依頼が舞い込む。丸一日かけて、3年生全クラスの演劇を審査員として観させてもらうことになる。大変だが、ものすごく刺激的でいろいろなことを感じる。
たまたま同じクラスになった面々が、全力で何かを作り上げていく学園祭。どのクラスにもそれぞれにドラマがある。爆笑をし、涙を流し、喧嘩をして、大もめにもめて。漏れ聞こえてくる大騒ぎの後、迎える本番。数ヶ月の間、真剣に取り組み、目指してきたその瞬間であるステージに立つ学生たちの姿を、いつも心から美しいと思う。それこそ、今日の聖句にあるように「澄んだ目で全身が明るい」と感じる。「一生懸命」に下心がなく、利害が無く、ただただ本気で取り組んでいるからかもしれない。学校という場所ならではの風景だとも思う。
本番までの数ヶ月の間に、多くの学生たちが人生を左右するような出会いや経験をする。偶然のように始まる友情や恋愛の中で、未来を語り、その語った未来の実現のために努力をする日々が始まったりする。
人生が進めば、もしかしたら、光を見失ってしまうような厳しい現実がまっているかもしれない。全身を輝かせてくれるような光を澄んだ目で見つけることは、歳を取る程、難しくなるようにも思う。

 

今回の聖句は、見失った時に、「あなたの中にある光が消えていないか」調べろと語る。それは、誰にでも出来る事だなあと思う。自分の中に暗い所がないか、正直に向き合う。そして、もし見つかったなら、その暗い部分を認める。誰にでも出来るが、実際にはしんどい作業だ。でも、そうすることで、目は再び澄み始め、光を見つけ、体の中にまた火をともしてくれるようになるということなのだろう。

そして、教会は澄んだ目で見つめられた時に、光を見出してもらえる場所であるべきなのだとも思う。燭台の上に置かれた時に恥ずかしくない教会であることが要求されているように思う。それは信仰者でいることにおいても同じだろう。厳しいことだ。

もちろん、学園祭での経験は、偶発的で奇跡的な一瞬の輝きかもしれない。まだ社会の複雑さのない純粋な世界での小さな成功体験かもれない。それでも、その輝きを放てる自分との出会いは、生涯の財産だと思う。その経験が、後に自分の暗い部分を認める勇気を与えてくれるからだ。

 

今の自分を変える鍵をいつも私たちは自分の中に持っているのだと思う。随分昔に書いた「KEY」という曲の歌詞を紹介する。

 

「KEY」

そう 遠い昔何も見えぬ頃同じ場所にいたね
そう 一人ずつ夢を語っては巣立つように消えた

時が来て飛び降りた 降りたって鍵を開けた
恐れなど何一つ無くて長い旅を始めた そうだろう

 

そう 時間の上で誰もが手探りで違う場所に生きる
ああ 誰かが寂しさに躓いて足を止めたようだ

 

遠い夢に追いつけず 苦しさに鍵をかける
閉じこめたその同じ鍵は開けるためのものだよ
時が来て飛び降りた 降りたって鍵を開けた
恐れなど何一つ無くて長い旅を始めた そうだろう

 

長い苦しみの末に 鍵をかけてちゃ駄目さ
光も手にせずに 鍵をかけてちゃ駄目さ

 

遠い夢に追いつけず 苦しさに鍵をかける
閉じこめたその同じ鍵は開けるためのものだよ
時が来て飛び降りた 降りたって鍵を開けた
恐れなど何一つ無くて長い旅を始めた そうだろう

 

手で触れて分かる事 ルカによる福音書 24章38節~39節(Baggage)(聖書の話36)

「そこで、イエスは言われた。『なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。』」

(ルカによる福音書 24章38節~39節)

 

今日の聖句は、なかなか難しいところだ。十字架にはりつけにされて死んだはずのイエス様が復活して弟子たちの前に現れたときの記述だからだ。今の科学では「そんなことはあり得ない」という聖書箇所だ。
「科学的か」とか「現実的か」とかそういう問題としてイエス様の復活を考えると、どうしても話は難しいところにいってしまうのだが、この聖書箇所を読んでいて、あるとき僕はある感情をいだいた。

 

この箇所での弟子たちの状況は、相当絶望的なものだっただろうと思われる。人生をかけて、イエス様に従う事をきめて、一緒に歩んで来たのに、そのイエス様が時の権力者によって、死刑を宣告されて死んでしまったという現実。自分たちにも身の危険が迫っている弟子たちは、それでも、ばらばらに逃げる事もせずに、部屋に鍵をかけて、また集まっていた。
この先の人生をどうすればいいのか、なぜ、イエス様は死んでしまったのか。答えのない自問自答の中にいたのではないだろうか。
そこへ、イエス様が肉体をもって現れる。しかも、「触ってみろ」という訳だ。

 

僕が抱いた感情は「よかったなあ、嬉しかったやろうなあ」だ。それは不思議な感情だった。復活を信じられたとか、分かったとかではなく、ただ素直に弟子たちの気持ちを感じた経験だった。

 

例えば、誰かと会い、話をしたとしよう。その人が実在したかどうかを疑う人はいないだろう。それは、信じるか信じないかではなく、そこにその人がいたことは出会った本人にとっては確かなことだからだ。それと同じくらいの確かさで、はっきりと、弟子たちはイエス様がそこにいる事を感じたのだと思うのだ。ただただ嬉しかったのではないかと思う。

 

そして、その物語は、2000年ものあいだ、くり返し、弟子たちと同じようにイエス様が復活したことを確信する人たちによって、語られ、聖書に記され、消えてしまうことなく、私たちのもとまで運ばれてきたのだと思う。
科学的な説明など必要のない確かさで復活したイエス様に出会い、喜びを感じる。イエス様の教えに従い、人生を歩む中で、イエス様の人生に出会っていくということが起こる。聖書を読み、教会に通い、自分の生き方を探し求める時、イエス様が十字架にはりつけにされ死んでしまうということに、弟子と同じように絶望するという事が起こる。そして、復活したイエス様に出会うということが起こって来たのだと思う。

 

「Baggage」という曲の歌詞を今回は紹介しようと思う。復活は論理的証明、科学的証明が可能な出来事ではないかもしれない。けれど、主体的告白としてなら、確かなことなのではないだろうか。イエス様の復活は、語り継ぎたくなる喜ばしい出来事なのだと思う。

 

「Baggage」

 

手で触れて分かること 抱きしめて感じあえることを 運んで行くんだ僕ら
不確かで危うくて 切なくてあたたかい心を 運んで行くんだ僕ら

 

小さな箱に閉じ込めたものを紐解いて見せるように

 

僕だけのストーリーを君に聞かせよう
君とだけのストーリーを

 

愛しさに守られること 見つめれば伝えあえることを 運んで行くんだ僕ら
慰めて励まして ぎりぎりで浮かんでる心を 運んで行くんだ僕ら

 

小さな箱に閉じ込めたものを紐解いて見せるように

 

僕だけのストーリーを君に聞かせよう
君とだけのストーリーを
僕だけのストーリーを君に聞かせよう
君とだけのストーリーを