祈るときには マタイによる福音書 6章9節~13節(聖書の話1)

随分前に同志社女子大学での礼拝奨励を毎週させていただいた。同志社高等学校でキリスト教学という教科の嘱託講師をさせてもらっていることもあって、依頼が舞い込んだのだ。ギターを持って行って、音楽による奨励をしたりしながら、普段の授業や新しく考えたことなどを聖書のお話として10分くらいにまとめていく作業は新鮮で楽しかった。
その時の原稿をもとに、週に一回くらいはブログにも簡単な聖書のお話をのせてみようかなと思う。なんとなくね。概ね「日報」のようなブログだが、たまにはティーチャーサイドの僕の顔も紹介してみようと思うのだ。

さて、その第1回は、お祈りの仕方についてお話をしようと思う。
このブログを読んでくださるみなさんが、人生の大変な時に「ああ、キリスト教の神様にお祈りをしたいなあ」と思った時、その方法を知らないというのは、ちょっと残念だと思うからだ。
初詣などに行くと、いろいろとお祈りの方法が書かれている。手水屋でお清めをした後に、二礼二拍手一礼。その作法には実は一つ一つ意味があるように、キリスト教の御祈りにも作法があるのだろうか。

今回選んだ聖句はイエス様がどのように祈るのがいいかを教えている個所。別の福音書では、弟子がイエス様に「御祈りの方法を教えてください」と尋ねたときのイエス様の答えとして記されている。

「だから、こう祈りなさい。
『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。
御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。
わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。
わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』」
(マタイによる福音書 6章9節~13節)

この箇所は、キリスト教の人々に大切にされ、「主の祈り」と呼ばれて、形を整えられ、世界中で暗唱されるようになった。みなさんもどこかで聞いたり、あるいは暗唱させられたりした経験があるかもしれない。

天にまします我らの父よ
願わくは
み名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン

まずは、この主の祈りを少し詳しく見てみることにする。

「天にまします我らの父よ」
イエス様は祈りの最初にそう声に出しなさいと教えた。それが意味するところは何か。それは、「名前を呼ぶ」ということだ。「神よ」でも「主なる神よ」でも、「神様」でもかまわない。最初に名前を呼ぶと、それがどんな場所であっても神はそこにいて、耳を傾けて下さるということなのだ。

「み名をあがめさせたまえ み国を来たらせたまえ み心の天に成る如く地にもなさせたまえ」
呼んだ後に、神の栄のための祈りが続く。「み」という言葉は「神の」という意味なので、神の名前を崇めることができますように、神の国つまり天国がやってきますように、神の意志が天国で実現しているように地上でも実現しますように、と祈る訳だ。そして、やっと、「我らの」ということになる。

「我らの日用の糧を今日も与えたまえ 我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ」
「日用の糧」とは「今日の食糧」という意味だ。必要な生活物資。現代においてはお金や仕事をイメージすればいいと思うのだが、一日分だけをお願いしろとイエス様は言う。そうである。この祈りは毎朝の祈りだ。毎日、一日分が満たされれば大丈夫なのだ。
生活物資が満たされた後は精神生活の平安だ。私たちの心が不安になるのは、誰かを許せない時、そして、誰かに許してもらわないといけない時だ。現代では、食事よりもこの問題の方が重要かもしれないな。
生活物資の充足と精神生活の平安。その両方に関する不安を取り除いてもらうように祈れとイエス様は言う。

「我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ」
最後に未来への不安を取り除くためにご加護を求める。これで現在も過去も未来も大丈夫。

聖句はここまででだが、プロテスタントではその後にまとめの言葉がついて、最後に「アーメン」という言葉がつく。この「アーメン」はもちろん聞いたことはあるだろう。高校のキリスト教学の授業で学生たちに「アーメン」を自分のイメージで日本語にしてみろというと、「よろしくお願いします」「以上」「ありがとう」などが挙がる。うん、惜しいけどちょっと違う。

アーメンはヘブライ語で「本当に」とか「確かに」という意味。つまり、いままでの祈りは私の本心ですという確認の言葉、人の祈りに「アーメン」というときは「私もその祈りに同意します」という意味になる訳だ。

この話を大学でする前日に、クリスチャンでない高校の職員にこのお話の相談をしていたら、ここまでを聞いて、「主の祈りって、地味で難しいですね」と言われた。そうなのである。この祈りは、世界でも、もっとも謙遜で、もっとも優等生な祈りといえる。でも、みなさんが本当に祈りたいと思う時は、「助けて」とか「苦しい」とか、そんな気持ちが支配していて、こんなに悠長に神の栄など祈ってはいられない時だろうなと思う。

今回、この祈りを勉強していて、一番大切なのは最初と最後だと気がついた。つまり呼ぶこととアーメンということの二つだ。メールで言うと送信先指定と送信ボタンといったところだろう。アーメンを言う前に、教会では「主の御名によって、アーメン」とか「主イエス・キリストのお名前によって、アーメン」など、イエス様に取り持って貰って神様に祈りを届けるという意味の言葉が使われる。最初と最後があれば、内容は自由でいい。初めての祈りは、助けを求める内容でも、愚痴でも、恨みつらみでも、なんでもいいと思う。ただ泣いてしまって言葉にならなくてもいい。神様と呼んで、最後にアーメンと言えば、それはキリスト教の祈りになるのだ。

いつか、自分でキリスト教の神様に祈りたいと思った時にそのことを思い出してもらえたらいいなあと思う。

恵みと真理 ヨハネによる福音書 1章17節(聖書の話2)

先週に引き続き、聖書の話を少し。「恵みと真理」というタイトルだ。

「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」
(ヨハネによる福音書 1章17節)

今回は、少し、聖書という書物について分析し、そこからこの聖句の意味を考えてみようと思う。

この聖書という書物は、なかなかおもしろい書物で、大きくは二つに別れている。旧約聖書と新約聖書だ。
時間的には旧約聖書のほうがずっと古い書物である。ヘブル語で書かれた旧約聖書は、ユダヤ人と神との歴史を通して、神の教えを書き記した書物だ。オールドテスタメント。古い契約。それは、神とユダヤの民との契約であり、その歴史だ。
一方、新約聖書はギリシャ語で書かれた書物である。聖書を大きく旧約と新約という二つに分ける人物がいる。イエスという一人の青年だ。イエス様は新約にしか登場しない。今から2000年くらい前に、30歳ぐらいで十字架にはりつけにされて死んで行った青年。彼の人生と教え、その弟子たちの生涯や弟子たちによって書かれた手紙によって新約聖書は構成されている。ニューテスタメント。新しい契約。新約では、イエス様を通して全ての人と神との間に契約が結ばれる。

書きあがり、編集されるまでに1000年以上を要したこの聖書は、創世記で始まり、ヨハネの黙示録で終わっている。世の始まりから、世の終わりまでが書かれていて、その中心にイエス様の誕生があるという構成になっている。
そのイエス様の「誕生から十字架での死、生涯と教え」を書き記しているのが新約聖書の最初にある4つの福音書だ。福音書とは英語でゴスペル。グッドニュース。いい知らせのことだ。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ。それぞれのグループが「イエス様の教え、あるいは存在そのものが、世の中にとっていい知らせだ!」と思って書き記した書物が「~による福音書」だ。だから、事柄によっては同じ出来事で4回書かれているものもある訳だ。
今回の聖句は、福音書の中では一番後に書かれたヨハネによる福音書の1章。つまり、書き出しの部分にある。

「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」

みなさんは「モーセ」と聞いて、何を思い浮かべるだろう。僕は高校でキリスト教学の授業をしているが、学生に質問すると、だいたい二つの回答が返ってくる。「海を割った人」と「十戒」の二つだ。
今から3000年以上も前の人物であるモーセは、旧約聖書に登場する預言者であり、エジプトからユダヤ人が脱出したときのリーダーだ。民を導き、海を割ってエジプトを脱出するシーンが映画などになっていて、学生たちへのモーセに対する一問一答で「海を割った人」というイメージが出てくるという訳だ。
そして、もう一つのモーセのイメージ「十戒」。これも映画になっている。民のリーダーとして彼らを導くモーセが、神から授かるのが十戒である。
十戒は十の戒めからなっている「~をしてはならない」という教えだ。この教えがもとになり、さまざまな細かいルールがユダヤ教の中に作られていく。そして「律法」を守ることが神との契約を実現するための方法だと考えられ、律法を一生懸命守る人たちが神に喜ばれる存在だと考えられていく。
そんな旧約の世界にイエス様は登場する。
イエス様は、律法でがんじがらめになり、窮屈になってしまった世の中で、どこか不健全になってしまった神と人との関係に疑問を投げかける。本当に大切なのはそのような事ではない、という訳だ。
イエス様は、律法というルールではなく、自分が出来る全てで人を愛すること、隣人になることこそが大切なのだと主張し、実行する人生を送る。それは、時の権力者の否定となり、疎まれて殺されてしまう訳だが、彼を殺しても、伝わってしまった「本当のこと」を権力者たちは止めることは出来なかったのだろう。イエス様の教えはキリスト教となり、世界に広まることになるのだ。

もう一度聖句を読んでみよう。
「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」

律法はイメージできるが、恵みと真理とは一体、何の事なのだろう。

まず、恵みとは何か。イエス様は、生涯を通して隣人を愛する事を実践した人物だ。わたしたちは本当に愛された時に自分が存在していることを肯定されているという実感を覚える。イエス様が愛した隣人たちの多くは、自分の存在を肯定できない問題を抱えている人たちだった。愛されているという恵みがイエス様から人々へ示されたということだと思う。また、イエス様のように愛そうとすると、「愛せない」という現実、自分の弱さや罪に出会ったりする。愛されているという恵みとは別に、愛そうとしても愛せないという自分の罪を、イエス様が十字架にかけられ、身代わりとなって下さったことで、すでに赦されているというもう一つの恵みが新約の世界には存在すると言える。
次に、真理とは何か。ある時、礼拝でジュネーブ教会信仰問答という書物の紹介があった。カルヴァンが書いたその問答の最初の質問は「人生の主な目的はなんですか」だそうだ。みなさんはこの質問にどう答えるだろう。カルヴァンの用意した答えは「神を知る事であります」だった。人生の主な目的は神を知ること。イエス様によって現れた真理とは、そういう類いの事柄ではないかと思う。律法を守ることによってではなく、イエス様に出会う事で、私たちは神のことを本当の意味で知る事が出来るのだとこの聖句は伝えているのではないだろうか。

律法はわたしたちに「生き方」は提示してくれるかもしれない。しかし、わたしたちの存在を根底から肯定してくれるのは、「生き方」やその結果における成果ではないように思う。「わたしたちがただ『生きている』ことにすでに意味がある」ということ「生きていてもいい」ということ、その発見こそが恵みであり、その恵みが偽りではないという確信こそ真理の発見なのではないだろうか。