ボートを漕ぐように(聖書の話44)

わたしはあなたを目覚めさせ
行くべき道を教えよう。
あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。

(詩篇32:8)

皆さんも「人生を進むとはボートを漕ぐようなものだ」という話を聞いたことがあるかもしれない。私達は未来へ向かい背中越しに進んでいく。過去が目の前にあり、未来は後ろにある。そう考えると、「三日前」と過去のことを表現し、「三日後」と未来のことを表現することにも納得がいく。

僕は、この例えを、ひどく気に入った。もともと、この話を僕に聞かせてくれたのは僕がまだ20代のころに担当した教育実習生だった。彼が、この例えを使った授業の教案を持ってきたのだ。しかし、その教案の結論はひどく退屈なものだった。「僕らは未来を見ながら進むことができない、だから不安になるのだ。だからこそ、船頭さんとして、イエス様にボートに一緒に乗ってもらいましょう。」
せっかくの興味深い例えが台無しだと僕は思った。ほとんどキリスト教に興味がない高校生に対して、なんて魅力のない結論なのだろうと。

僕がなぜ、この人生への例えを気に入ったのか。それは、この例えに人生の真実があるように思えたからだ。確かに未来は見えない。見えているのは、自分が辿ってきた今までの人生だ。
教案は教育実習生のものなので、「僕の考えとしてはどこが面白くないか」を伝え、彼なりにアレンジを加えて実習は無事に終わったように記憶している。実習は過ぎていったが、この例えがあまりに面白かったので、その後、僕は友人たちと、この例えをもとに話をすることが度々あった。僕以外はクリスチャンではない友人たち。大学を出て数年。社会の中でそれぞれにもがいていた僕らにとって、この例えから各々が感じる人生への思いはなかなか面白いものだった。
ある者は、「僕は自分のボートとオールが描く水面に残る進んだ後の美しさにこだわりたい」つまりは人生の歩み方の美しさに興味があると言う。また、別の者は「僕はスピードが大事だ」と言う。「いやいや、目的地の設定だろう」という者も。そんな中、「私は、あっという間に激流の上に乗っけられてここまで来たから、あまり自分でボートを漕がなかった」という友達もいた。若くしてメジャーデビューして、それなりに世間の脚光を浴びたボーカリスト。彼女はどれくらいのスピードで自分のボートが進んでいれば、人々はそのことに注目してくれるかをよく知っていたけれど、自分でボートを漕ぐ喜びにはしばらく出会っていないようだった。
僕は、進むべき方向へ一生懸命ボートを漕ぐことが人生を豊かにするのではないかという仮説を立てて見た。これは、賛否両論。極めてクリスチャン的だという批判も。「真実ありき、正解ありき」で考える時、ゴールを探す面白さ、結論が分からない面白さが奪われてしまうという感じだ。僕らは若く、まだまだ人生を模索していて、同時に自信に満ちていた。結果的に同じところをぐるぐる回っているだけだとしても、そんなに虚しいとは思わないという意見も出た。行きたいときに行きたいところへ行く、その自由が欲しいという友達も。
結果、僕らが、全員一致で大切だと考えたことは、「まずはボート漕ぐ楽しさを知ること」だった。そして、これこそが、若き日にまずは獲得して欲しい感覚だということになった。話の発端が高校生への授業教案だったので、どんなメッセージが高校生へ一番必要かを僕らなりに考えていたのだろう。そこから先の生き方へのこだわりが本当にそれぞれに違うということも僕らなりに感じた時期でもあった。

学校というのは、失敗したり危ない目にあっても大丈夫なように、学生を一生懸命守ってくれる。その環境の中で、見えない未来に向かって、全力で漕いでみる。失敗もするし、色々痛い目もみるだろう。でも、一生懸命漕いだ時に得られる喜びにも出会えると思う。その成功体験を原動力に、実際の社会に出て、自分の責任の中で、しんどくても喜びをもってボートを漕ぐことができるようになるのだと思う。
不安を感じるのはそれからで十分だ。教育実習生が言ったように、イエス様に一緒に乗ってもらうことでしか、乗り越えられない大変な未来もやってくるかもしれない。でも、その前に、まずは、自分でボートを漕ぐ喜びに出会って欲しいと思う。

今日の聖句をもう一度読んで見よう。
「わたしはあなたを目覚めさせ、行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。」
確かに、神様という優秀な船頭さんが、いつでも、あなたを見守ってくれていることを約束してくれている。けれど、同時に、自分の足で歩くこと、自分の意思で進むことを前提として、それを見守り助けるという約束であるようにも思える。

あれから随分と時間が経った。これを読んでくれる人がどのような状況に置かれているかを僕は知らない。一つ言えることは、今、その助けが必要な人がいるなら、「神様助けてください、進む道を示して下さい」と勇気を出して祈ってみることだ。行き先が分からなくなり、進むことが怖くなった時、神様にすがれば、必ず助けてくれる。聖書はそのことを約束している。だから大丈夫。

本当はいつだって、自分の精一杯の力で、まずは自分のボートを漕ぐことが大切なのではないかと思う。スピードが遅くても、漕ぎ方が下手でもかまわない。神様にすがるのは「代わりに漕いでもらうため」ではない。自分のボートを自分の力で進める力をもらうためなのだと思う。

ひと時の混乱(聖書の話43)

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が燃えていたらと、どんなに願っていることか。」

(ルカによる福音書 12:49)

 

今日の聖句はイエス様の言葉だが、少し意外に感じる人も多いのかもしれない。「地上に火を投じる」とは随分恐ろしい言葉だ。争いや分裂、ひどい場合には戦争をイメージしてしまう。

イエス様の意外性に出会った気がして選んでみた。イエス様は争いを止め、戦争を否定する人ではないのか?と思いながら、この聖句に出会い、この聖句の意味やメッセージをしっかり学んでみようと考えたのだ。

まずは、イエス様の生涯を少し振り返ってみようと思う。

今から2000年と少し前、ユダヤの民の中にイエス様は生まれる。当時のユダヤの民は、その民族の歴史の中で語られていた「救世主による王国が築かれること」を待ち望んでいた。エルサレムから御言葉が出るとイザヤ書の2章にあるように、救世主はエルサレムから登場して、自分たちを政治的にも経済的にも救ってくれると期待し、信じていた。
その時代背景の中で、イエス様は、救世主としての期待を集めることになる。イエス様自身も、人々を救うことをその生涯のテーマにされていた。救世主としての人生を進むイエス様が、その行いによって注目を集め、当時の人々に期待を持って受け入れられたことは想像に易い。時の権力者が恐れるほどに民衆はイエス様の言葉に心を動かされたのだ。

当時、人々を教え導く役割を担っていた律法学者たちは、神の裁きの恐怖を煽り、律法を守ることを一番大切だと教えていた。そんな律法学者たちの考えに真っ向から異論を唱え、律法をただ守ることが大切なのではなく、「愛する」という行為こそが大切であり、その行為によって私たちは神に喜ばれる存在となり、救われるのだと教えたイエス様。当時の人々はその教えに新しさと希望を感じたのだと思う。
救いを求めていた人たちにとって、イエス様が語られる言葉は新鮮で、今まで想像もしなかった考え方には刺激と発見がたくさんあったのだと思う。聖書を読んでいると、一時のイエス様は、大人気のロックスターのようだ。いく先々で民衆に囲まれ、見つけられると群衆が押し寄せ、すぐに囲まれてしまうと言った感じだ。
しかし、皆さんもご存知のように、イエス様は十字架に磔(はりつけ)にされて殺されてしまう。人々がイエス様を受け入れ、熱狂する時間はそんなに長くはなかった。

民衆の前で、自分たちの教えを否定された律法学者たちや、人々の心を動かすイエス様に恐怖を感じた権力者たちによって、次第にイエス様に対するネガティブキャンペーンがはられ、結局はでっち上げの裁判で、イエス様は十字架につけられてしまう。

イエス様に一時はついて行こうとしたけれど、イエス様は自分たちを経済的に救ってくれる訳ではないと気付いた人たちの失望や、政治的な成功を期待してついていったのに、どうもそういうことではないと感じた人たちの失望も、イエス様を十字架につけて殺してしまう考えを後押しすることになる。
「なんだ、生活が楽になる訳ではないのか」とか、「あれ?今度の選挙(当時の政治家の選出は選挙ではないと思うけれど)でも立候補しないのか。王様になる人ではないのか」と言った感じかもしれない。

私たちは、この世的な成功に目を奪われがちだ。そして、自分の生活を、特に経済的に豊かにしてくれるものに簡単になびいてしまう。景気さえいいなら、少しくらい不正があってもまあいいじゃないか、と言った具合だ。
今の日本を見渡しても、そのことを感じることは多いし、自分の生き方の中にも常に、その声は聞こえてくる。「成功したいなら」「勝ち組になりたいなら」「お金が必要なら」と囁かれることが度々だ。
まあ、ミュージシャンとして僕があんまり売れてないのは、そういう囁きを強い意志で排除してきたからではなく、単に、才能とか努力がまだ足りていないのだけれど、それでも、そんな誘惑を感じない訳ではない。そして、その誘惑に身をまかせると、往往にして虚しい結末が待っていることも少し知っている。

しかし、イエス様は、そんなこの世的な成功にはまったく興味を示されない。多くの群衆が期待していても、経済的成功や政治的権力を手にすることに目を向けられない。救世主とはこの世的な成功の中に存在するものではない、とはっきり語られる。最初は、「謙遜しておられるだけだろう」とか「いや、でも時代がイエス様をほっておかない、このままでは終わらないだろう」なんて思っていた周囲の人たちも、だんだん「これは本当に期待はずれかも」と思うようになっていったのかもしれない。今日の聖書箇所は、ちょうど、そのイエス様の「本当にしようとされていること」が語られ始める時期にあると言っていい。人々の期待と、イエス様が語っておられることとのズレが明確になっていく時期と言ったところだろうか。いや、イエス様の側も、この世がどのような状態かが分かり、自分のこの世での役割について、どんどんイメージが明確になっていた頃なのかもしれない。

私たちは、イエス様の生きた時代から2000年以上の時間がどのように流れたかを既に知っている。しかし、この時、イエス様はまだその未来を知らない訳だ。

聖書を学んでいくと、イエス様が、自分のこの世での生涯がどのような意味で与えられたかを見極め、覚悟を決めて行かれるシーンに時々出会う。人間として、死の苦しみも痛みも感じながら十字架で殺されることを受け入れる覚悟は並大抵のものではなかっただろう。

旧約聖書の中に出てくる預言者の言葉を学び、自分が救世主としてこの世に生まれたことを予感しながら、人々を救うために何をしなければならないかを常に考えておられたように思う。
おそらく、自分は生贄として殺されることになるだろうと気付いた時、ものすごく辛かったり、苦しかったり、嫌だったりしたのかもしれないなと思うのだ。

十字架に磔にされた後、イエス様は復活をして、多くの弟子たちの前に現れ、語られる。復活の後のイエス様は、どこか穏やかで自由だ。そして、優しい感じがする。
しかし、その穏やかな時間はまだ訪れていない。イエス様自身も必死で生きておられる真っ只中で今日の聖句は語られているのだ。

ユダヤ教の考え方の中にある「来臨」、つまり救世主がやってきて、この世を治めてくれるという考え方の中で民衆の期待を集めたイエス様は、その期待に答えず、十字架に死に、そして復活していつか再び来ることを約束して天に上げられる。
インターネットを調べていたら、僕がかつて英語を教えてもらった市川喜一先生のページにたどり着いた。
市川先生曰く「われわれの信仰は終末的である。その内容を具体的に言えば、われわれはキリストの再臨を信じ待ち望んでいる。われわれの罪のために十字架の上に死なれたキリストは、三日目に復活して天に上げられ、やがて栄光の中に再び来られると、われわれは新約聖書の証人たちと共に信じている。」
再臨信仰というのだろうか。

ルカによる福音書の今日の箇所までを読んでいると、その再臨の時の準備をしなさいという話がたくさん出てくることに気づく。どこかへ出かけていた主人が帰ってくるまでに何をしておかなければならないか、といった例え話が見受けられる。
再臨に備えて「目を覚まし・ともし火をともし・腰に帯を締め・良き管理人となれ」という感じだ。
しかし、今日の聖句は、再臨ではなく初臨、今回のイエス様のこの世への到来において、イエス様が何をしにきたかを語っておられる。この世の現状の中で、イエス様のメッセージを民衆が正しく受け取るなら、どのような状態が待っているかを悟り、ご自分がこの世に来られた意味を語っておられるのだ。

今日の聖句をもう一度読んでみよう。

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が燃えていたらと、どんなに願っていることか。」

ある注解書に、「主の願いは、再臨の日がもう既に来ていることでした。それが、『火が既に燃えていたらと…』です」とあった。そうか、と思った。イエス様も、その時代に生きて、その時代の状況を初めて知る訳だ。だんだんと人々が何を望み、何に心を奪われているかを知る訳なのだ。
イエス様が気がついていた大切なことを、イエス様が語られる言葉を、人々が受け入れられないことをまざまざと見せつけられる中で、この言葉は語られているのだと思う。「私の語ることを、この時代の中で受け入れるなら、ひと時の混乱は免れない」と、イエス様は感じられたのではないかと思うのだ。
では、イエス様は何を語られ、何を私たちに伝えられたのだろうか。
イエス様が語られたことは、最初からずっと「一生懸命愛しなさい」ということだけだったのだなと思う。愛せない自分を悔い改めなさい。私が、あなた達の足りない部分を補って、愛せるように支えるから頑張りなさい。そのことだけを伝え、ただただ、当時の弱者達のところへ赴いて、励まし、愛された生涯だったように思う。
そして、それはとても厳しい人生なのだと、イエス様は度々説明をしている。「愛する」という行為を命がけで行うときに、そこには争いが生まれてしまうことがあるのだと。そのひと時の混乱の先にしか、本当に愛が実現した世界はないのだと。

火は争いと共に浄化を意味する言葉だと註解書にあった。利権にまみれて、正しさなど失われてしまった世界で、正しくあることを主張すれば、当然揉め事が起こる。事なかれ主義で見えないふりをしている方が、うまくいくことの方がほとんどだ。
イエス様はそのことに妥協をしない。人々が見捨ててしまった弱者を愛し、本当に反省しているなら、一見、律法を覆してでも、その人を赦し、守ろうとする。
少しでも火が燃えていたなら、イエス様の到来を民衆は受け入れることができただろう。しかし、火をつけるところから始めなければならないところまで、世界は荒み、人々は罪に身を任せていた。世界を救うためには、正しさの火をともさなければならない。それは、この時代にとっては揉め事の種となる。それでも、その役割を自分は全うするのだ。その決意が、この聖句の中に垣間見れる。

争いの結果として最悪なことは、死者が出てしまうことだ。イエス様は、全ての人の身代わりとなってその最悪の死者になってしまう。
愛することが一番大切だ。けれど、律法に定められた罪を償うことも決して軽んじてはならない。たくさんの罪人の罪を「赦す」と宣言されるイエス様は、その罪を担って自分が十字架につくことを覚悟されているのだ。その十字架への人生の決意の中で、この言葉は語られている。「最悪の結果だけは、私がなんとかする。しかし、それぞれに、それぞれの人生を戦って欲しい。愛のもとに戦って欲しい。」そういう思いが今日の聖句には感じ取れる。

今日、私たちは、この聖句を聞いた。
本当はいうべき言葉を飲み込んでしまってはいないだろうか。誰かにムッとされることを恐れて、弱いものが犠牲になることをそのままにしてはいないだろうか。利害を求めて正しくあることを諦めてはいないだろうか。それぞれに、自分に問いかけてみて欲しい。
怖くて身動きが取れないのは当たり前だ。処世術なら決して進めてはこない選択を迫られている気分になるかもしれない。
でも、神様がいてくださるなら、その争いはひと時の混乱であり、その先には本当の平和が待っているはずだ。そのことを信じて勇気を振り絞れる人でありたいと思った。

実は、一旦、この説教はここで終わりだったのだが、書き上げた後、多くの友人たちにこの話を聞いてもらい、特にクリスチャンではない人たちの意見を聞く機会に恵まれた。そこから感じたり発見したことを少し付け加えようと思う。

感想として上がった最初の質問は「ひと時の混乱」の先にある「本当の平和」とは何ですか?というものだった。そして、「言わなければならないこと」とはどんなことですか?という質問。
全ての言わなければならないことは、それぞれの利害から出ているように思う、とある友人が言う。「良心のようなものが言わせる、利害を超えたものがあるのでは?」と聞くと、「その良心も時代や場所あるいは国によって違う価値観になってはいないか」「突き詰めたところでは、どこか利害によってその感情は生まれているのではないか」という訳だ。

相対的な事柄しかこの世界にはないのか、それとも絶対的なものがあるのか、という問いは非常に大切だと思う。
神様という絶対的な存在があり、その神様が示す道は絶対的だ、という価値観の中で、今日の説教は語られている。そこには正しい答えが存在し、自分にとって不利益になることでも、その正しさを求めることに意味があるという考え方が成立する。
しかし、全てが相対的だとすると、「争いを招いてでも言うべきこと」などないと言う考えになってしまうのもよくわかる。自分だけが我慢すれば、揉め事にならない、と言う訳だ。

「どうして絶対的なものがあると言えるのですか?」
何度も繰り返されて来た問いである。絶対的なものの絶対性を論理的に証明することはできない。神様がいると証明することはできないのだ。そこには信仰があるのみだ。信じること、聖書に学ぶこと、教会に来ること、そして、信じた先で行動を起こしてみることによって、つまり、信仰生活を送ることで、自分の信じた事柄が真実であることを確信するようになる。でもそれは論理的証明ではない。実践と経験による主観的告白だ。

神様に聞き従う訓練を繰り返す信仰生活によって、ひと時の混乱の先に訪れる奇跡のような穏やかな日々を信じられるようになるのだと思うのだ。
それは、イエス様が十字架の後に復活して、いつか再臨してくださると言う未来をも信じさせてくれる信仰でもある。

もう一つ、大きな質問があった。
「言うべきこと」「するべきこと」とは具体的には一体何ですか?その正しさは何よって判断するのですか?この話を聞いた人は、その後、どう動けばいいのですか?と言うもの。

それぞれに具体的にどんなイメージがあるか、どんな体験があるか、などを聞いてみた。色々と話し合ったのだが、結果として「そこに愛があるか」が一つのバロメーターかもしれないと言うことになった。随分とふわっとしたバロメーターだが、クリスチャンではない友人たちも「愛があるか」と言う言葉には比較的イメージが湧くとのこと。これもまた人それぞれで、なかなか難しい。

それでも、その決断が愛による決断かどうかを、いつも問いかけてみることでわかることもあるように思う。ひと時の混乱を招くとしても、相手に対する愛からその混乱が起こっているなら、その未来は明るいのではないかと思うのだ。
もちろん、それもかなり勇気のいることだ。こうする方が愛があるとわかっていてもなかなか動けない。愛したくても愛せないのが私たちだ。その弱さを補うために、イエス様この世に来られた。愛せない私たちを赦し応援してくれる。

「神様、守ってください。神様、支えてください」そう祈ることは全員に与えられている権利だ。信じていなくても、心を沈めて祈ってみることだ。必ず何かが変わってくる。私たちの心の中に、弱々しくとも、火が燃えていることをイエス様は願っておられる。
その願いに応えたいものだ。

愛のとき(聖書の話42)

そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ決して天の国に入ることはできない。」

(マタイによる福音書 18章2節~3節)

今回の聖句は弟子たちがイエス様に天の国で一番偉いのは誰かという質問をした時にイエス様が答えた言葉の一部だ。 「子供のようなる」とは、どのようことを意味するのだろうか。
この箇所で登場する子供は、高校生や中学生でも「子供って可愛いいな」と感じるような幼子を指しているようだ。イエス様は、そんな幼子のような心でないと天国に入れないと言われる。それはどのような心を指すのだろうか。

僕は、毎年、秋に自分の音楽生活の中では一番大きなライブイベントを行ってる。京都の円山公園にある音楽堂で「ハラダイスライブ」というフェスみたいな野外ライブを行うのだ。出演者は、フェスっぽいのに僕だけ。正確には僕と僕を支えるミュージシャンだけだ。そのハラダイスに向けて、毎年テーマを決めるのだが、今年は「LOVES YOU」というテーマでステージを作っていくことに決めた。そして、そのことを考えている時期に、高校での礼拝の話をいただいた。
せっかくだから、曲を書いてみようと思った。高校の音楽の先生を誘って、愛するということについて、何か歌えることはないかと一緒に考えた。
先生に「愛するというテーマで、日常に感じていおられることはありますか?」という質問をしたら、お子さんとの関係の話をしてくださった。僕には子供がいないのだが、先生には幼子がおられる。「うーん、やっぱり『愛する』というテーマなら子供のことを思いますね。」と先生は言う。自分がいなければ、自分が守らなければ、生きてはいけない幼子を愛する気持ち。「本当に励まされるんです、子供に」と言う彼女に、僕は少し不思議な気持ちになった。自分が時間を割き、世話をして育てていく子供に励まされる。愛していることで逆に元気をもらっている。愛すると言う行為は自分からエネルギーを出しているようで、逆にたくさんの力をもらっている行為だと気付かされる。

幼子は何をしたのだろう。わがままに泣いたり、世話をかける。ただ愛されただけなのだ。

イエス様はその幼子のどこを天の国に入れる心だと言っているのだろう。今回、先生の話を聞いて、全部を委ねて愛される心のことをイエス様は言っておられのかもしれないと思いった。全部を委ねて愛されてくれる存在に愛する側は大きな力を貰えるのだ。それは同時に幼子に愛されていること、必要とされていることを実感する瞬間でもあるのかもしれない。

「そんな綺麗な愛情の交換なんて理想でしかないよ」

大人になってからの恋愛なんかを考えるとそう言いたくなる。けれど、誰しもかつては幼子だった。そして、気がつかないうちに全部を委ねて愛されていたのだろう。あるいは、いつか、お父さんやお母さんになって、自分の子供を愛する喜びに出会うかもしれない。そんなことを思った。

音楽の先生にアドバイスをもらいながら「愛のとき」と言う曲を書きあげた。 その曲の歌詞を紹介したいと思う。

「愛のとき」

まっすぐな笑顔 小さな手を握る
僕を見つめる眼差し

君を大切だと思ったり 君がいてくれて嬉しかったこと
噛み締めたありがとうはきっと愛だ

穏やかな寝顔 一日の終わり
僕を支える温もり

君を大切だと思ったり 君がいてくれて嬉しかったこと
噛み締めたありがとうはきっと愛だ

目を閉じて明日を思うよ 優しく抱きしめて
その愛で明日を生きるよ 与えられた勇気で

君を大切だと思ったり 君がいてくれて嬉しかったこと
噛み締めたありがとうはきっと愛だ

きっと世界に(聖書の話41)

平和を実現する人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。

(マタイによる福音書 5章9節)

今回の聖句は山上の説教と言われる、イエス様の教えをぎゅっとまとめたマタイによる福音書の冒頭部分の一節だ。 キリスト教独特の言い回しや言葉が、少し難しかったりする。 平和を実現するとは何か。天の国とはどこか。 意味を探るために、少し乱暴ではあるけれど、平和の反対を戦争、幸いの反対を不幸、天の国の反対をこの世として、今回の聖句を裏返してみた。

戦争を実現する人々は、不幸である、
この世はその人たちのものである。

悲しいことに、ある種のリアルが、この言葉から感じられるように思う。戦争を実現する。それは実際に戦争を行うということだ。 この世界を支配している人たちによって戦争が実現してしまう、その現実を私たちは以前より、最近、少し強く感じているかもしれない。 この世で成功を収めていくために自分たちはどんな人生を歩んでいくか。成功のためにはお金が必要であり、経済的な豊かさを大切にして現実を見れば、時と場合によっては戦争も仕方がない。あるいは、制裁を加えるべき悪意に満ちた国家へは、武力行使も仕方がない。自分たちの身を守るためには武器を取るべきだ。戦争を実現してしまう人たちの理屈に自分も飲み込まれてしまいそうになる。

その一方で、単純に人を殺したくない、戦争をするのは間違っている、と思っているのも本当だ。

イエス様が生涯を投じて伝えようとしたことは、とてもシンプルなことだった。それは愛するという行為。神様を愛し、自分を愛するように隣人を愛することが、私たちが幸せになり天の国、神の国につながって行く方法だと教えた。 神様の支配を信じて、復讐の連鎖を止め、敵を愛し、迫害者のために祈ること。それはとても難しいことのように思える。それでも、私たちが少しずつ努力するときに、だんだんと世界が変わって行くかもしれないのだ。この世的には損をすることも度々起こるかもしれない。でも大丈夫だとイエス様はこの聖句で述べている。天の国では損をしていない、そして、何よりもあなたは幸せになる、と読み取れる。

さて、機会があったので、先日、友人たちに、ここまでの話を聞いてもらい意見をもらった。いくつかの質問と指摘があった。 その一つは愛することに自分の人生の軸足を置くときに経済的成功は犠牲になるのではないかということ。お金のことを一番に考えることは出来なくなる、そのことが誤魔化されて言及されていないのではないかという指摘。もう一つは天の国は死後に感じるものなのかという質問。そして、「幸い」という聖句の言葉は「幸せを感じる」ということと同じではないのではないかという指摘。

どれも鋭い指摘と質問だ。

僕も、イエス様の勧める道では、この世的な成功、経済的成功は難しいと思う。と同時に、本当に幸いな人生を歩めるなら、それは幸せであり、人生にとって成功であり、その幸せは生きている中で感じる天の国なのだとも思う。

憎むより愛すること。裁くより赦すこと。争うより平和であること。その一つ一つはこの世的には損で、バカバカしく思えたりする時があるかもしれない。でも、迷ったり失敗しながらであっても私たち一人一人がその道を選んで行くときに、きっと世界が、この現実の世界が変わって行くのだ。そのことを信じる。そんな人生を素敵だと思う。そんな思いで「きっと世界に」という曲を書いた。最後に、その詞を紹介する。

「きっと世界に」

誰かの涙が どこかで幸せを生み
僕らの涙が どこかで安らぎを生み
あなたの涙が どこかで争いを止めるならいいな

愛を求め 星を探し 傷つき 傷つけ 月を見上げた
繋がってる 全て 心の震えは 小さな波を きっと世界に

誰かの笑顔が どこかで喜びを生み
僕らの笑顔が どこかで平和を生み
あなたの笑顔が どこかで戦争を止めるならいいな

愛を見つけた 雨は上がる 光がこぼれて 雲は流れた
繋がってる 全て 呼び合う想いは 大きな波を きっと世界に
愛を見つけた 雨は上がる 光がこぼれて 雲は流れた
繋がってる 全て 呼び合う想いは 大きな波を きっと世界に

左の頬を差し出せるだろうか(聖書の話40)

悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。

(マタイによる福音書 5章39節)

 

今回は、非常に有名で、しかしちょっと分からないなと思う聖書箇所を選んだ。職場の高校の同僚の先生からの質問を切っ掛けに、改めて学んでみた。

最初の発見は,今日の聖句との対比でよく語られる「目には目を,歯には歯を」という言葉について調べたときにあった。
目を奪われたなら,相手の目を奪ってもいい、やられたらやり返してもいい,いや,「やられたらやり返せ!」というイメージで、僕はなんとなく復讐のルールとしてこの言葉を理解していた。
しかし,旧約聖書に出てくこの言葉を読むとあることに気がつく。

 

「もし、その他の損傷があるならば、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。」

出エジプト記 21章23節~25節

 

文章の最後は「償わなければならない」だ。つまり,この聖句は復讐の方法ではなく,償いの方法として書かれているのだ。もし誰かの目を奪ってしまったら,自分の目を差し出しなさい,歯を奪ってしまったら自分の歯を差し出しなさい,と語られているのだ。
随分印象が変わる。旧約聖書とともに,ハンムラビ法典にもある記述だが,本来,償いの方法として語られたこの言葉は,律法の中では,報復が過激に展開していくことを禁じる知恵として語られるようになっていったようだ。
今日の聖句の一つ前の聖句で,イエス様もこの言葉に触れている。

 

「あなたがたも聞いているとおり『目には目を,歯には歯を』と命じられている。しかし,わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら,左の頬をも向けなさい。」

(マタイによる福音書 5章38節~39節)

 

素直に読むと,「目を奪われたときには,同じように目を奪うことまでは許す,と今までの律法は語ってきたけれども,私は新しい教えを伝える。右の頬を打たれたときには,相手の右の頬を打ち返すのではなく,加えて自分の左の頬も差し出すようにしなさい。」ということになるだろうか。
これはなかなか納得のいかない話だ。普通に考えると,ちょっと非現実的で,意味がわからない。周囲の友人たちに意見を聞いてみても、ほぼ全員が,同意できない,好きではない,綺麗ごとだ,理想主義だ,偽善的だ,ただ戦う勇気がないように思う,という見解だ。暴力がいけないことは分かっているが,受けた以上,そのことに怒りを覚えるのは当然ではないか、何も,左の頬まで差し出す必要はないではないか、というのだ。素直に受け取れないというわけだ。なんとか理解しようとして「自分は本当に悪いことをした,右の頬を打たれただけでは足りません,本当に反省しているので,左の頬も打ってください」という反省の意味ではないかという意見まで出た。
けれど,今日の聖句を読むと「悪人」が右の頬を打ったときが想定されている。つまり,こちらに非がないにも関わらず右の頬を打たれたときに左の頬まで差し出そうというわけだ。

この、どこか不思議で理解が難しい聖句を、恐らく,イエス様の言葉を聞いた当時の人たちも,驚きと違和感をもって聞いたと思う。けれど,歴史の中を生き残って,この言葉は聖句となってわたしたちのもとに届いている。そこには,どんな力が働いたのだろうか。どんな共感が起こってきたのだろうか。そういう視点で学びを進めた。

 

今日の聖句はマタイによる福音書の5章から始まるイエス様の山上の説教の中にある。7章の終わりまでを使って,多くのイエス様の教えが語られる。悪魔からの誘惑に打ち勝ったイエス様が弟子をとり,本格的に人々に教えを述べ伝え始められる最初の説教だ。
その説教は新しさに満ちてた。当時の社会の常識やルールとは違うものだった。当時の社会の常識やルール。それはモーセの十戒を中心とする律法によって形作られたものだった。その律法をただ守ることが神様の望んでおられることだと信じてきた人々は,いつの間にかルールに縛られ,ルールを守れない者を裁くことに一生懸命になっていた。「これをしてはいけない」「あれをしてはいけない」その窮屈さの中で生きていた。それに対して,イエス様の教えは,自由で魅力的なものだった。十戒の本質的な意味を「愛」を中心に捉えなおし,「してはいけない」というルールではなく「能動的に『愛する』」ということを人々に促したのだ。神様を愛し,自分を愛するように隣人を愛することで,律法を守る人生は実現するのだとイエス様は語る。律法の廃止ではなく完成がそこにはあるのだと語る。

しかし,自由で魅力的な教えは,同時に非常に厳しいことを要求している。今日の聖句はその代表的なものかもしれない。
愛することを軸に今日の聖句を考えるときに,愛する対象として挙げられている「隣人」が自分に関わる全ての人を指していることに気がつく。理不尽な理由で自分の右の頬を打ってくる悪人までも含んでいることに気付かされる。あきらかに悪いやつにまで愛を向けろ,その愛で左の頬まで差し出せというのだ。自分は間違っていないのに,何度も頬を打たれるなんて納得がいかない。そのことに耐えるだけでもすでに厳しい。そして,その自分に害を及ぼす相手を愛するということが,何よりも難しくて厳しい。
しかし,イエス様は力強くこのことを語り,わたしたちに迫ってくる。人々はその教えに驚いたけれど,非現実的だと感じたかもしれない。では,なぜ,この教えは今まで残ってきたのだろう。
それは,イエス様自身がこの教えを貫いた人生を歩まれたからだと僕は思う。人々を救うためにその生涯をささげられたイエス様は,自分を殺そうとする人々を最後まで愛して,十字架において,その命を差し出すその時にも「父よ,彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23・34)と彼らのために祈った。
イエス様の生涯があることによって,この教えは非現実的ではなくなったのだと思う。イエス様の歩んだ道を知っていることによって,クリスチャンにはその行為の先で起こる奇跡を信じる力が与えられるのだと思うのだ。イエス様の弟子たちや,イエス様についていった人々は,イエス様がバカにされ、けなされ,暴力を振るわれて,十字架に磔にされ,亡くなった後に,イエス様の教えが,世界に受け入れられていく奇跡を目の当たりにしたのだ。イエス様の教えが,奇跡のように真実として力を発揮することを確信したのだと思う。

非現実的と奇跡的はほとんど同じ意味の言葉だ。敵を愛し,右の頬に加えて左の頬まで差し出すときに,奇跡が起こると信じる事がクリスチャンには可能だ。それは、イエス様というそれを体現した存在があるからだと思うのだ。

 

その奇跡はイエス様以外にも見出すことができる。今回,この聖句を学んでいく中で,この聖句が決して非現実的なものではなく,奇跡的な力になりうる真実を語っているということについて,最初にイメージされたのはガンジーという人物とその行いだった。

1982年に上映された「ガンジー」という映画の前半40分の中に,印象的なガンジーの演説シーンがある。南アフリカでガンジーが非暴力直接運動という手法で差別と戦うことを実践する中で,同胞たちにその戦いへの参加を説得する演説シーンだ。
ガンジーが「何をされようと我々は攻撃しない。殺しもしない。だが絶対に指紋を押さない。そのために投獄,罰金,財産没収もあるでしょう。だが,我々が与えぬ限り,自尊心は奪えません。」と語る中,ある青年が我慢の限界となって,叫ぶ。
「投獄されたか?拷問にかけられるぞ!」
ガンジーは毅然と答える。
「戦って下さい。彼らの怒りと戦って下さい。我々は一切抵抗しません。殴られて下さい。我々が苦しむことで,彼らは不正を悟ります。痛いでしょう。戦いは痛いものです。だが負けてはなりません。彼らは責め苛み,骨を砕き,殺すでしょう。彼らは死体は手にしますが服従は手にできません。」
もちろん脚本だから,本当のガンジーの演説がどのようなものだったかは僕にはわからないが,すばらしい演説だ。非暴力直接運動という方法で,南アフリカではガンジーはある一定の成果をあげる。そして,インドの独立へとその活動を広げていくのだ。
注目すべきは,戦って下さいと彼が言っていることだ。

 

I am asking you to fight.
To fight against their anger,not to provoke it.
また,
And it will hurt as all fighting hurts.
とも。

 

戦う勇気がないから,されるがままになるのではない。暴力を黙って受けることもまた戦いなのだと思う。
僕はもともと喧嘩が苦手だし,ひどく弱いので,暴力がすごく恐いと思っていて,例えば学生から「表へ出ろ」なんて言われたら縮み上がると思う。それでも注意や指導をしなければいけないような局面で,まあ,そんなことは一度もないのだが,殴られる勇気をもって注意をする時に,そこには説得力があるだろうなと思う。「自分の間違いに、暴力を振るっている側が気付く」ということがあるのだと思う。凛とした態度で暴力を真っ向から受け取られると,暴力を振るっている側が自分の不正に気付き、惨めになっていくという不思議な現象が起こるのだろう。暴力による相手の恐怖と怯えで相手を支配した気分を味わえると思っていたのに,予定が狂ってしまって,自分の横暴さや傲慢さだけが際立ってしまうことに,逆に恐怖を覚えるということがあるのだと思う。

 

左の頬を差し出せたときの力は少しわかってきた。しかし,やはりまだ釈然としない部分が残る。

その勇気をどこから貰えばいいのかという疑問と不安。今回の聖句が愛を中心に据えた,新しい律法だという考えに立ち返るとき,敵を愛せるだろうかという根本的な問いが迫ってくる。

 

わたしたちが敵を愛せないのはなぜなだろう。悪いことをしている,間違っている人からの暴力を受けたときに,その人のことを愛せないのはなぜなのだろう。人間の本質として,それは当然のことのようにも思う。こちらに非はないように思うのだ。怒る権利があるように感じる。

加藤常昭先生の説教の中に「基本的な権利を主張する自己主張ではなく、損をしたくないという自己主張」がそこにはあるという一文があった。そうなのだ,間違ってもいないのに何回も殴られるなんて,損なのだ。損を引き受けるなんて不幸だ,そんなのイヤだと思ってしまう。しかし,加藤先生は「損をすることを誰かが引き受けることで世界は成り立つ」のだと主張する。そして,損を引き受けるためには不幸への愛,厳しい運命への愛が必要だと語っている。

ガンジーの演説を聞いたインド人たちはガンジーの提案を受け入れる。彼らは「自分たちが殴られても,たとえ殺されても差別者たちが自分たちを服従させることはできない」というガンジーの言葉に,自分たちの置かれた運命や不幸を愛する力を見出したのだと思う。

 

They can not take away our self-respect.

 

Self-respect、 自尊心を奪われないということの中に自由を見出し,不幸や運命を愛するという勇気を与えられたのだろう。差別する心に縛られている不自由な差別者たちからの暴力を引き受ける勇気を勝ち取ったのだと思うのだ。自尊心を持てないまま被差別者にとどまっていることからの開放を損ではあるが喜びをもって選んだのだと思うのだ。

 

それでは,わたしたちは,どこからその勇気を得ればいいのだろう。確かにイエス様の生涯が奇跡を証明してくれているとは思う。それは真実だとも思う。しかし,自分が実行に移す動機にはなかなかなってくれないというのも本心だ。
クリスチャンではない友人たちは,「この考え方は,好きではない」とはっきり言う。しかし,クリスチャンとして、信じたイエス様がそう語っているのだから,やはり自分も実行しなければならないのではないかと思ってしまう。そういう気分で聖書と向き合うと,クリスチャンは窮屈で不自由だと思ってしまう。

 

さて,私たちはどこに自分を置いて、この聖句を読んでいるのだろうか。正しい者として間違った誰かに頬を打たれた時のことばかり考えているのではないだろうか。ハンムラビ法典が,償いの方法を語っていることに発見があったように,一度,自分の立場を別の場所に置いてみる必要があるのかもしれない。

 

どこに。それは,右の頬を打ってしまう側にだ。誰の。それは神様の,あるいはイエス様のだ。

 

わたしたちは生きている中で罪を犯す。それはもう,どうしようもない無力さで罪を犯してしまう。平気で神様の右の頬を打ってしまうのだ。そして,その時に神様は左の頬も差し出して下さっているのではないだろうか。あるいは,イエス様を十字架にかけたのはわたしたちだったのではないだろうか。「父よ,彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と祈ってもらったのは,わたしたちだったのではないだろうか。

神様の支配がなければ、この世に光はさしてこない。自分が神様の頬を打ったとき、神様は黙って左の頬をも差し出してくださった。その事実の中で、自分は自分の罪に気付いて、救われてきたのだという奇跡を受け入れる時、初めて不幸を愛し、運命を愛する勇気,損をすることを引き受ける勇気が与えられるのだと思う。

神様が世界の全ての人を愛してくださっている事を信じられるかが問われている。愛される価値のない悪人の中に自分を見出すとき,神様の愛が自分に届く奇跡と喜びを実感できるのだ。そして,神様は本当に全ての人を愛してくださっている。どんな罪をも赦す救いの手を差し伸べてくださっている。

世界を支配しているのは人間であり、損をしないように生きていく事が大切なのだと考えれば、敵のために、悪のために祈る事など出来ない。神様の愛なんてなくても,自分の力で,まあまあ正しく生きられると考えれば,わざわざ悪人のために損をする動機など生まれてこない。

わたしたちは,どちらに自分の人生を賭けるかを問われている。

自分が左の頬を差し出してもらったという経験から初めて,自分の左の頬を差し出す勇気を与えられるのだと思う。
信仰とは実践の中での確信だ。自分の罪に気がつき,神様と向き合うときに,自分の中に神様が働いて,奇跡のように左の頬を差し出せる瞬間を経験するかもしれない。神様が支配している世界の中で生きることを選ぶ時に、奇跡は形となり現実のものとなるのだと思う。そのことへの招きが、今日の聖句にはあるのだと思う。

思い煩いと神様(聖書の話39)

思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。

(ペテロの手紙Ⅰ  5章7節)

今回はペテロの手紙Ⅰという新約聖書の後ろの方にある聖書箇所から聖句を選んだ。イエスの使徒ペテロによって書かれたとされる手紙だが、本当は誰が書いたのかはっきりは分からないようだ。ただ、小アジア(現在のトルコ西部から中部)の人々に向けて「信仰をしっかり持っているように」ということで書かれたものであることは分かっている。まだキリスト教徒が世の中から迫害を受けていた頃、その迫害に打ち勝って、神様を信じるようにと筆者は読者を励ましている。

もう一度、今日の聖句を読んでみよう。

「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」

思い煩い。みなさんは、今日、なにか心配事や悩みを抱えていらっしゃるだろうか。今日の聖句はそれらを全て神様にお任せしなさいと語る。

「お任せしなさい」という言葉は「委ねよ」と訳されていた時代もあり、原語には「投げかけよ」という比較的強い意味もあるようだ。自分の心配事を神様に投げかける。全部任せて委ねてしまう。それがおすすめだと聖句は語る。なぜなら神様はあなたのことを考えてくれているからだというのだ。

今回の聖句について調べたりしながら、勉強していて、思い煩いの構造について興味深い解説に出会った。「古代ギリシャ語で『思い煩い』には、『心を分割する』という意味がある。『これは心配しなくてもいい』と考えるすぐ後から、『本当に心配しなくてもいいのか?』とささやく声が聞こえてきて、私たちの心が分割される。それが思い煩いだ」という注解だ。

私たちは、まだ現実となっていないのに、空想の中で勝手に未来を不安に思ってしまう。そうやって思い煩いの正体を見破るとそのことに心を揺さぶられ時間を奪われている事をバカバカしくも感じる。未来の事は未来になってみないと分からない。

しかし、同時にあることに気がついた。それは、神様に委ねたからといって、自分の望む結末が今回の聖句で約束されている訳ではないということだ。解決するとも大丈夫だとも聖句は言っていない。ただ、神様はあなたのことを心にかけていてくださると断言しているだけだ。

つまり、自分の望む未来ではなかったとしても、その未来は自分を心にかけてくれた神様が導いた未来だと信じるなら、まだ見ぬ未来について心を分割される必要はないではないかと聖句は語っているのだ。

実はなかなか厳しい聖句だなと思った。「お任せしなさい」には、心からの信頼が要求されている感じがする。しかも、神様から明確な返事や約束は直接にはない。その不確かさこそが、キリスト教の厳しさ、難しさだと僕は思う。どうすれば信じられるのだろう。どうすれば安心出来るのだろう。そんなことを考えていて、ある出来事を思い出しだ。それは、自分の教会の牧師とのたわいない会話だ。

ある時、忙しさの中で不安に押しつぶされそうなことがあった。スケジュールも随分タイトで、それなのに教会の用事を頼まれて、いくつかの予定の合間を縫って教会に向かった。

音楽を作る事、あるいはお芝居をするために台詞を覚えたり、その稽古に追われているという状況。自分の日常が、神様に喜ばれるものであればいいのだけれど、なかなか自信をもって神様に喜ばれているとは言えない。それ以前に、いま取り組んでいる表現が、受け手に喜んでもらえる表現へと高められているかさえ怪しいという状況だ。

そんな不安の中にあった僕は、そのことを特に相談した訳ではなかったのだが、教会の用事を済ませた後、牧師と少し近頃の忙しさと現在抱えている仕事について、雑談をした。別れ際に、牧師が一言「祈ってるからね」と僕に告げた。ただ一言「祈っている」と告げられただけだ。

その言葉を聞いた時、不思議な事に僕はまさに思い煩いからの解放を感じた。本当に祈ってくれていること、ただその確信が、大きな安心を僕に与えた。目の前に存在する牧師は、僕のことを神様に祈ってくれている。

僕は神様の愛は人を介してやってくるのだと常々思っている。もちろん、静かに祈り、一人聖書を読む中にも神様との出会いはあるだろう。しかし、直接関わってくれる人との間に神様の働きを感じる時、より強く、神様を感じ、その愛を確信できるように思うのだ。

私たちは、共に生きる人々、神様とつながる人々に支えられている。それは素敵な事だ。私たちのために、私たちの未来のために祈っていてくれる人たちがいる。その力強さ、その希望を強く感じる。

そして、それは同時に、私たちが、人々のために祈る事ができることを意味する。わたしが、今日、共に時間を過ごすみなさんのために祈れることを意味する。

みなさんが、いま抱えておられる心配事や悩みが神様によって取り除かれ、神様が用意して下さる未来を受け入れる力がそれぞれに与えられますように。

光と闇(聖書の話38)

わたしは言う。
「闇の中でも主はわたしを見ておられる。
夜も光がわたしを照らし出す。」
闇もあなたに比べれば闇とは言えない。
夜も昼も共に光を放ち
闇も、光も、変わるところがない。

(詩編139編11節~12節)

 

今回の聖句の冒頭「わたしは言う。『闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す』」は、以前よく使われていた口語訳聖書では「『やみはわたしをおおい、わたしを囲む光は夜となれ』とわたしが言っても」と訳されている。
どこにいても全てを知って全てを見ている神様(あなた)から闇を使って筆者(わたし)が逃れたいと感じているニュアンスが読みとれる。

僕は、「神様は見てらっしゃる」という洗脳教育とも言える家庭教育を受けたので、つねに神様の視線から逃れられない気分を幼少期から味わってきた。それは、時には安心を生み、時には反抗を生む。筆者のように、「闇をまとって、神様の視線から逃れたい」という気持ち、そういう試みが湧き上がってくる。今回の聖句は、その気分の中で、白旗を揚げているらしい。所詮は、神様から逃れられないのだという白旗。闇を闇としない圧倒的な光が神様にはあるというのだ。

 

しかし、光とは何を指し、闇とは何を指すのだろう。光と闇からイメージするものを周囲の友達に尋ねると興味深い答えが返って来た。

「自分の内面の表と裏をイメージする」という意見。「光と闇」を自分の中で完結させて感じている。たとえば天使の囁きと悪魔の誘惑というような外からの働きは一切感じていないのだ。自分の中の状態として光と闇があるという感覚。いや、光というより、闇でない部分、自分の中にある、闇と闇でない部分。

もし、外からの働きかけがないとすると、光より闇が強いと感じるのはよく分かる。そうなると、自分の闇は見つめないで生きて行く方が賢いということになるのかもしれない。そして、闇を見つめないことで光にも気がつけないということが起こっているのではないか。うっすらと絶望している、という状態。現代の社会はまさにそういう状態なのかもしれない。

もう一人、興味深い見解を述べた友達がいた。「闇が最初に与えられている状態だな」と彼は言う。光という外からの働きかけがなければ、基本的には闇が支配していると考える方が自然だという。光によって闇は消されるけれど、光がなくなってしまうと闇にかえってしまうという訳だ。

はっとした。

今回の聖句は、まったく逆の発想で語られているのだ。光があるという状態をどうやっても変えられない。闇をまとって光から逃れようとしても、光からは逃れられないと筆者は語っているのだ。そして、その光は、自分の内側からではなく、外からの働きかけとしてあるのだと。そこには決定的な違いがある。その違いとは何か。
「神様がいるかいないか」だ。

圧倒的な光の存在を感じているときに、初めて、光から逃れられないという発想は出てくる。太陽を知っているから暗闇で居続けることは出来ないと感じるように、神様からの光を感じているということなのだろう。神様に対する信仰と信頼において、ある意味では諦めながらそのことを受け入れ、おおいに喜ぶべきだという態度が今回の聖句にはある。

神様はいる。絶対的に存在している。そのことからは逃れられない。僕もそう思う。そう思ってしまった人にとっては、それはよく分かる話なのだとも思う。と同時に分からない人にとって、さっぱりリアリティーがないのかもしれない。いったいどんな光があるというのだ、この世は暗闇だらけではないか。絶望が希望を上回っているではないか、悪が善を押さえ付けているではないか。そういう声が聞こえてくる。

この世の中を見る、自分の心の中を見る、人の行いを見る。神様が存在しないという前提で世界を見渡せば、絶望と暗闇の支配ばかりが目につく。

 

視点の変換が必要なのだ。
たとえば、人と対峙する時に、その人の悪意に気をとられていると、どんどん人間関係は悪くなっていく。自分のことを信じてくれていないのではないか、と怖くなって、なにか歯車がくるってしまう。うまくいっていない一人の人との間にも、本当は愛し合いたい気持ちがあって、求めているのに、表面的には敵対してしまったり意地悪になったり、無愛想になったりしているということがある。分かり合いたい、繋がりたいという自分の気持ちに素直になったり、分かり合いたいと思ってくれていると、相手の事を信じたりすることで、関係がかわったりすることを経験する。
視点を変える事で、見えていなかったものが見えてくる。闇を見ていたのに、光をみつけることが出来るようになる。それは、ずっとそこにあって光を放っていたはずなのに見えていなかった光だ。

 

詩編が書かれた旧約聖書の時代には、神様を感じる事は今よりずっと大変だったかもしれない。しかし、私たちの時代は、イエス様が誕生した後の時代だ。2000年前にこの世に降り立ったイエス様は、見えにくかった光をはっきりとこの世に知らせるためにその生涯を駆け抜けた人だった。全ての絶望、全ての悪意、全ての暗闇に打ち勝つ希望と善意と光を示した人だった。

つまるところ、暗闇とは、お金や権力に惹かれてしまう人間の欲望であり、そこから自由になれない人間の罪へと帰結していくように思う。
その罪に身を任せてしまうことが、人間の本質だとするなら、私たちが見ているのは、神のいない暗闇が支配する世界だ。
しかし、イエス様は、お金や権力が、人間の欲望が、まったく魅力をうしなってしまう力が愛にはあって、その愛は確実に全ての人に注がれているのだと伝える。そして、それでも欲望に身を任せて、罪を重ねてしまう私たちの罪の裁きまで背負って、自分が身代わりとなり十字架について、「もう大丈夫だ、たとえ失敗して罪を犯しても、その償いさえ済んでいる」というメッセージを残した。

わたしたちは、その希望に招かれている。その希望は確かにここにあって、その光は私たちを照らしている。あるものはあるのだと思ったりする。

視点を変えることで、その光に気がつける人でいたいと思った。

 

雨の夜も光る道(聖書の話37)

青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。
苦しみの日々が来ないうちに。
「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。
太陽が闇に変わらないうちに。
月や星の光がうせないうちに。
雨の後にまた雲が戻って来ないうちに。

(コヘレトの言葉 12章1節~2節)

 

空しさと向き合った王様コヘレト。そのコヘレトの言葉を綴った「コヘレトの言葉」。旧約聖書の中で、非常に興味深い箇所だ。解説を読むと「死に運命づけられた人間の生の意義について考えた、ある知恵者の書」とある。その最後の章に、青春の日々を過ごす若者へ向けて、コヘレトが言葉を紡いでる。
彼のメッセージは一点だ。「お前の創造主に心を留めよ」。若いときに自分を創った者を知る事が大切だとコヘレトは言う。

 

本来、青春時代は何にだって一生懸命だ。恋も友情も将来の夢への取り組みも。死の予感はまだ遠く、希望に溢れている。現実は甘くないという大人たちの言葉を、敗者の遠吠えのように感じたものだ。その感覚は健全なものだと僕は思う。そして、その時期にこそ、一生懸命生きる事の楽しさを感じるべきだと思う。夢中になれることの幸せを実感するべきだと思う。
青春と相対的なものはやがて過ぎて行く。そこには諦めがあり、絶望がある。虚しさが襲って来て、なぜあんなに楽しかったのか不思議に思ったりする。そして、絶対的なものが存在するかどうかという問題が、初めて自分の人生にとって大きな問題になるのだと思う。

 

僕が信仰を受け入れたのは、24歳の時だった。キリスト教を信じたからといって、生の意義に対する答えが明確に与えられる訳ではなかったが、その問いを誰に向けて行うのかを定められた言う意味においては、人生の大きなターニングポイントになったと思う。私たちが誰に、あるいは何に創られたかという問い。あるいは何のために創られたのかという問い。この種の問題に対する答えは実存の中で獲得して行くものだ。不確かながら、一生懸命生きることの先で、少しずつ確信されていくものだと僕は思う。
そうなのだ。青春が過ぎても、結局は一生懸命生きていかなければならない。そのためには、過ぎて行かない、相対的でない、絶対的な何かが必要なのだ。諦めや虚しさを越える希望が必要なのだ。コヘレトは「お前の創造主」こそがそれだと語る。

 

今回は「雨の夜も光る道」という曲の歌詞を紹介しようと思う。

「雨の夜も光る道」

その人がくれた愛は 確かに君を育てた
月明かりが闇夜に道を照らす

君は旅支度を調えて 振り返らずに旅立つだろう
星の示す行く先へと急いで

迷わずにその道を行く 不安や焦りよりも速く
その人が見守ることは 必要な時が来れば思い出せばいい

陽の光と希望に溢れて 喜びと楽しみをみつける
太陽は情熱に火を注ぐ

やがて雨の夜が訪れて 情熱の火は消えたとしても
その人がくれた愛を 分かち合う喜びを知るなら
雨の夜も光る道を見るだろう

迷わずにその道を行く 不安や焦りよりも速く
その人が見守ることは 必要な時が来れば思い出せばいい

 

手で触れて分かること(聖書の話36)

「そこで、イエスは言われた。『なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。』」

(ルカによる福音書 24章38節~39節)

 

今日の聖句は、なかなか難しいところだ。十字架にはりつけにされて死んだはずのイエス様が復活して弟子たちの前に現れたときの記述だからだ。今の科学では「そんなことはあり得ない」という聖書箇所だ。
「科学的か」とか「現実的か」とかそういう問題としてイエス様の復活を考えると、どうしても話は難しいところにいってしまうのだが、この聖書箇所を読んでいて、あるとき僕はある感情をいだいた。

 

この箇所での弟子たちの状況は、相当絶望的なものだっただろうと思われる。人生をかけて、イエス様に従う事をきめて、一緒に歩んで来たのに、そのイエス様が時の権力者によって、死刑を宣告されて死んでしまったという現実。自分たちにも身の危険が迫っている弟子たちは、それでも、ばらばらに逃げる事もせずに、部屋に鍵をかけて、また集まっていた。
この先の人生をどうすればいいのか、なぜ、イエス様は死んでしまったのか。答えのない自問自答の中にいたのではないだろうか。
そこへ、イエス様が肉体をもって現れる。しかも、「触ってみろ」という訳だ。

 

僕が抱いた感情は「よかったなあ、嬉しかったやろうなあ」だ。それは不思議な感情だった。復活を信じられたとか、分かったとかではなく、ただ素直に弟子たちの気持ちを感じた経験だった。

 

例えば、誰かと会い、話をしたとしよう。その人が実在したかどうかを疑う人はいないだろう。それは、信じるか信じないかではなく、そこにその人がいたことは出会った本人にとっては確かなことだからだ。それと同じくらいの確かさで、はっきりと、弟子たちはイエス様がそこにいる事を感じたのだと思うのだ。ただただ嬉しかったのではないかと思う。

 

そして、その物語は、2000年ものあいだ、くり返し、弟子たちと同じようにイエス様が復活したことを確信する人たちによって、語られ、聖書に記され、消えてしまうことなく、私たちのもとまで運ばれてきたのだと思う。
科学的な説明など必要のない確かさで復活したイエス様に出会い、喜びを感じる。イエス様の教えに従い、人生を歩む中で、イエス様の人生に出会っていくということが起こる。聖書を読み、教会に通い、自分の生き方を探し求める時、イエス様が十字架にはりつけにされ死んでしまうということに、弟子と同じように絶望するという事が起こる。そして、復活したイエス様に出会うということが起こって来たのだと思う。

 

「Baggage」という曲の歌詞を今回は紹介しようと思う。復活は論理的証明、科学的証明が可能な出来事ではないかもしれない。けれど、主体的告白としてなら、確かなことなのではないだろうか。イエス様の復活は、語り継ぎたくなる喜ばしい出来事なのだと思う。

 

「Baggage」

 

手で触れて分かること 抱きしめて感じあえることを 運んで行くんだ僕ら
不確かで危うくて 切なくてあたたかい心を 運んで行くんだ僕ら

 

小さな箱に閉じ込めたものを紐解いて見せるように

 

僕だけのストーリーを君に聞かせよう
君とだけのストーリーを

 

愛しさに守られること 見つめれば伝えあえることを 運んで行くんだ僕ら
慰めて励まして ぎりぎりで浮かんでる心を 運んで行くんだ僕ら

 

小さな箱に閉じ込めたものを紐解いて見せるように

 

僕だけのストーリーを君に聞かせよう
君とだけのストーリーを
僕だけのストーリーを君に聞かせよう
君とだけのストーリーを

 

体のともし火は目(聖書の話35)

「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」

(ルカによる福音書 11章33~36節)

秋になると、職場の高校の学園祭があり、時々、演劇祭の審査員の依頼が舞い込む。丸一日かけて、3年生全クラスの演劇を審査員として観させてもらうことになる。大変だが、ものすごく刺激的でいろいろなことを感じる。
たまたま同じクラスになった面々が、全力で何かを作り上げていく学園祭。どのクラスにもそれぞれにドラマがある。爆笑をし、涙を流し、喧嘩をして、大もめにもめて。漏れ聞こえてくる大騒ぎの後、迎える本番。数ヶ月の間、真剣に取り組み、目指してきたその瞬間であるステージに立つ学生たちの姿を、いつも心から美しいと思う。それこそ、今日の聖句にあるように「澄んだ目で全身が明るい」と感じる。「一生懸命」に下心がなく、利害が無く、ただただ本気で取り組んでいるからかもしれない。学校という場所ならではの風景だとも思う。
本番までの数ヶ月の間に、多くの学生たちが人生を左右するような出会いや経験をする。偶然のように始まる友情や恋愛の中で、未来を語り、その語った未来の実現のために努力をする日々が始まったりする。
人生が進めば、もしかしたら、光を見失ってしまうような厳しい現実がまっているかもしれない。全身を輝かせてくれるような光を澄んだ目で見つけることは、歳を取る程、難しくなるようにも思う。

 

今回の聖句は、見失った時に、「あなたの中にある光が消えていないか」調べろと語る。それは、誰にでも出来る事だなあと思う。自分の中に暗い所がないか、正直に向き合う。そして、もし見つかったなら、その暗い部分を認める。誰にでも出来るが、実際にはしんどい作業だ。でも、そうすることで、目は再び澄み始め、光を見つけ、体の中にまた火をともしてくれるようになるということなのだろう。

そして、教会は澄んだ目で見つめられた時に、光を見出してもらえる場所であるべきなのだとも思う。燭台の上に置かれた時に恥ずかしくない教会であることが要求されているように思う。それは信仰者でいることにおいても同じだろう。厳しいことだ。

もちろん、学園祭での経験は、偶発的で奇跡的な一瞬の輝きかもしれない。まだ社会の複雑さのない純粋な世界での小さな成功体験かもれない。それでも、その輝きを放てる自分との出会いは、生涯の財産だと思う。その経験が、後に自分の暗い部分を認める勇気を与えてくれるからだ。

 

今の自分を変える鍵をいつも私たちは自分の中に持っているのだと思う。随分昔に書いた「KEY」という曲の歌詞を紹介する。

 

「KEY」

そう 遠い昔何も見えぬ頃同じ場所にいたね
そう 一人ずつ夢を語っては巣立つように消えた

時が来て飛び降りた 降りたって鍵を開けた
恐れなど何一つ無くて長い旅を始めた そうだろう

 

そう 時間の上で誰もが手探りで違う場所に生きる
ああ 誰かが寂しさに躓いて足を止めたようだ

 

遠い夢に追いつけず 苦しさに鍵をかける
閉じこめたその同じ鍵は開けるためのものだよ
時が来て飛び降りた 降りたって鍵を開けた
恐れなど何一つ無くて長い旅を始めた そうだろう

 

長い苦しみの末に 鍵をかけてちゃ駄目さ
光も手にせずに 鍵をかけてちゃ駄目さ

 

遠い夢に追いつけず 苦しさに鍵をかける
閉じこめたその同じ鍵は開けるためのものだよ
時が来て飛び降りた 降りたって鍵を開けた
恐れなど何一つ無くて長い旅を始めた そうだろう

 

思い悩むな(聖書の話34)

「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」

(マタイによる福音書  6章31-33節)

今回の聖句は、神様が必ず助けて下さるという、その確信、その信頼を自分のものとする方法について、「まず、神の国と神の義を求めなさい」と語る。神の国で喜ばれる生き方を探し、神が正しいと示してくれる「神の義」を求めてみなさいと言うのだ。
それでは、 神の国と神の義はどうやって求めればいいのか。信仰者でない人にはがっかりな答えかもしれないが、それは、教会に行く事、聖書を読む事、お祈りをする事に始まる。その生活の中で進むべき道が示されていく。神様からのご利益で判断し、信じるのではなく、何も答えが見えていないときに、それでも、神様にすべてを委ねれば、あとから全てが与えられると聖句は語る。

先日、クリスチャンでない友人と話をしていて、「どうも、ハラダの話は、神様が大前提になっていて、ついていけない」と言われた。人生の不条理について話をしていたのだが、僕の話には、どこか、楽観的な所があると彼は言うのだ。彼は、人生で起こる理不尽を見渡すときに、やっぱり「神様がいるとしたら、いったい何をしているのだ」という思いを抱いてしまうらしい。「大丈夫、神様がなんとかしてくれる」と言う事さえ憚られるような現実はたくさんあるという指摘だった。
確かにその通りだ。表面的にこの世を支配しているのは神様ではないのだと思う。お金に対する人間の欲は愛よりも強く、権力を求めて理不尽に世界を操作しようとする者が成功していくようにも見える。
しかし、その奥に、やっぱり神様の支配、真実の勝利があるのではないかと僕は思う。長い時間をかけて結局は悪が裁かれることや、大金持ちなのに幸せについて全く知らない人がいることを私たちは知っている。貧乏だけど正しく生きた人が何一つ足りないものがない幸せな人生だったと語る場面を目にする事もある。

楽観的だという指摘を否定するつもりはない。と同時に、今回の聖句が約束することを信じる力は、究極のところでは僕にはないかもしれないとも思う。今までの人生はただラッキーだっただけで、本当に大変なことが起こったら、信仰どころではなくなってしまうかもしれない。あー、やっぱり神はいない、人生は絶望だと嘆くかもしれない。

しかし、この言葉を語ったイエス様は実存的に今回の聖句が真実だということを示してくれている。私たちは、教会に行き、聖書を読み、お祈りをする事で、イエス様がどのような生涯を過ごしたかを知ることが出来る。絶望するには十分な状況をイエス様は生き抜いて行く。経済的な不安はもちろんのこと、理不尽きわまりない出来事がイエス様を次々に襲っても、イエス様は進む道を変えない。祈り、神様の声に従い生涯を全うする。
そして、その生涯は、2000年経った今も学ばれ、イエス様が伝えたこと、伝えたかったことは今日も世界で語られている。イエス様は決して楽観的で世間知らずの詩人ではなかった。今回の聖句の裏側に、決意と勇気が隠れている。「きっと神様は自分の人生を無駄にはなさらない」という信仰が隠れている。まだ見ぬ未来への不安を振り切るイエス様自身の決意表明が隠れている。

その決意と結果こそがご利益を大きく上回る私たちへの恵みなのだと気付かされる。信仰者であろうとなかろうと、イエス様の歩まれた道を辿る事が私たちにはゆるされている。イエス様の生涯はすでに起こった出来事だからだ。確かにそこに道があるという安心感。険しく厳しい道ではあるだろうが、不完全ながらも、その道を辿り、思い悩まない人生を歩んで行くことが全ての人に向けて開かれているのだと思った。

希望のある苦難(聖書の話33)

そればかりでなく苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。

(ローマの信徒への手紙 5章3節~4節)

この聖句を書いているのはパウロという人だ。イエス様の直接の弟子ではなく、むしろイエス様の死後、弟子たちを迫害する側にいたユダヤ教徒だったパウロは、神秘体験の後、回心し、キリスト教徒として多くの手紙を聖書の中に残した人物だ。
パウロの文章は、教義的で、厳しいイメージがあり、難しく、堅苦しいという印象を僕は持っていたのだが、今回の聖句は受け入れやすく、魅力を感じる。ポジティブで、人生に役に立ちそうなにおいがしているからかもしれない。クリスチャンで無くとも納得出来る、普遍的な格言のようにも思える。

キリスト教とは何かということについて、書き記されたこの手紙の中で、今回の聖句は信仰生活の特徴について語っている箇所だ。その流れの中で神学的に語句の意味を探ってみた。
「苦難」は信仰の故にうける迫害、犠牲、痛苦。キリスト者に臨む特殊な艱難。
「忍耐」は信仰的に動揺しないこと。屈せず神の道を行う積極的行為。
「練達」はキリスト教徒がその信仰を試されることで得る信仰的確信。
「希望」は信仰によって義とされた者が終わりの日の輝かしい完成に連なるという希望。

イエス様を信じることで迫害されても屈せずにイエス様に従っていけば、どんどん救われている確信が強くなり、天国があること、天国へと導かれている事を喜べるようになるのだ、という感じだろうか。

語句の意味を理解すると、今回の聖句がきわめてキリスト教的な信仰者の生活へ向けられた言葉であることが分かって来た。イエス様の十字架での死と復活が自分の罪の身代わりだったことを信じ、その復活に置いて神様に救われ、自分がただしい者に変えられたことを信じる、「キリストによる信仰による義」をまず心から受け入れ、喜び、理解する、その先での信仰生活の話だ。

随分難しい話になってきた。しかし、パウロという人物をイメージしてこの言葉を読む時に、救われたという癒しから、信仰生活の実現の厳しさへと深まっていく日々に叫び声をあげている等身大のパウロの姿が見え隠れしていることに気付いた。キリスト者の苦難とは普通なら感じなくともよい苦難であり、その先に練達と希望があることをパウロは強く認識しており、それが信仰者の全てに約束されていることを伝えようとしているのだ。やっぱり、教義的で、厳しいイメージがあり、難しく、堅苦しいのだが、必死に自分に言い聞かせながら手紙を書いているパウロを思い描いて、パウロに出会えたような気分になった。

パウロが「ローマの信徒への手紙」を書いたのは、おそらく30代に起こった回心から20年後くらい、三回目の伝道旅行の最中だったと思われる。つまり、だいたい50代の半ばくらいだったと推測される。今の僕とほぼ同年代。少し先輩だ。

この箇所は毎日の祈りであり、約束だ。自分を含めて、信仰者を励まし、導こうとするパウロは、決してこの言葉が実現していない信仰者を攻めているのではないだろう。しかし、同時に厳しい積極性を要求していることも事実だ。それは行為による確信を促すパウロの愛とも言える。

さて、私たちの人生には苦難と言えるようなものがあるだろうか。それは、人それぞれかもしれない。苦難だと感じている同じ出来事も別の人にとっては苦難ではないかもしれない。それは本当に個人差がある。しかし、同時に苦難のない人生もまた想像できない。おそらく私たちは人生の中で苦難に出会うことになるだろう。
その苦難には二種類あるのではないだろうか。「希望のある苦難」と「希望のない苦難」。

最後に残った語句として「誇り」について調べていて、ドイツのエルンスト・ケーゼマンの「人間は誇りにおいて自分が誰に属しているかを表明する」という解説を見つけた。
苦難は出来れば願い下げたいところだが、信仰者として救われて来た僕は、同時にこの「希望のある苦難」を、喜びを持って誇りとすることをパウロに勧められているのだと感じた。