この花の一つほどにも マタイによる福音書 6章29節(聖書の話19)

しかし、言っておく。
栄華を極めたソロモンでさえ、
この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

マタイによる福音書 6章29節

今回の聖句に登場する「ソロモン」は、古代イスラエル(イスラエル王国)の3代目の王様です。ダビデの息子であり初めてエルサレム神殿を築いた人物。イスラエル王国が最も繁栄した時代の王と言えます。 一方、「この花」とは野の花のことです。 野に咲く小さな花の美しさに最高の繁栄の中にあったソロモン以上の美しさを認めるというのが今日の聖句です。

神様が私たちに与えている美しさについて、高校で17歳、18歳の学生たちを見ていると、毎日のように感じさせられることがあります。若さを伴って、一所懸命生きていること、そのまぶしさが教室に溢れています。ましてや、学園祭の時期など、そのステージの上に繰り広げられるドラマと学生の表情を本当に美しいと感じる瞬間がたくさんあります。 湧き上がる内面的な奇跡のような美しさに何度も感動したりします。

その美しさは、「若さ」や「容姿」に支えられているのでしょうか。

僕自身、もう少し若いときには、目鼻立ちが整っていること、見た目の美しさに、今よりもっと心を奪われがちだったように思います。リーダーシップを発揮し、中心で頑張る学生に目が行きがちだったかもしれません。けれど、年を重ねていくと、今まで気が付かなった美しさに目が行くようになりました。バラやユリではなく野に咲く小さな花にも気が付ける時が少し増えたように思うのです。
横着をせずにひたむきに学問に取り組む姿や、純粋に喜びを表現する素直な表情に「美しさ」を感じるのです。それは、「この人はきれいな心だな」と思う瞬間なのかもしれません。
一人一人の学生がそれぞれに輝く瞬間を持っているのは確かなことです。なかなか難しいことですが、その輝きを見出し、伸ばすことが恐らく教育者に求められていることなのだと思います。そして、学生だけでなく、年齢や性別を超えたすべての人の中に、実は「美しさ」を見つけることができるというのが、今日の聖句の語っているところでしょう。

わたしたちにもともと与えられている美しさとは何でしょう。

聖書を読むと「思い悩むな 大丈夫、神様が守ってくださる。」というメッセージの中で、今日の聖句は語られています。何を着ようか、何を食べようか、そんな心配で命を憂うなと聖書は語ります。生きているということを肯定することが、この聖句の根底にあるように思います。「あなたは、あなたのままで、すでに美しいものとして創られ、そして神様に愛されている。だから安心して一生懸命生きなさい」というメッセージを感じるのです。

美しさの一つは、「一生懸命生きる」という姿だと思います。自分に与えられている命の可能性を精一杯に使おうとする姿だと思います。だから、職人の背中に、おじいさんやおばあさんの表情やちょっとした所作に、私たちは「美しさ」を感じるのかもしれません。そして、もう一つは、「愛する」という行為ではないでしょうか。相手のことを考えて動いている人に、小さな思いやりの中に、人間の美しさを感じます。

わたしたちは、神様に愛する力を与えられて創られているのだと思います。すべての人を愛せるとか、完璧な愛とかではなく、小さな小さな力でしょう。それでも、愛する喜びを感じる心を与えられていると思うのです。
不完全であっても、一生懸命生きる、一生懸命愛そうとする、その時に神様が足りない部分を補ってくださる。その神様からの愛を疑わずに受け取るときに、野の花のような美しさが私たちにも与えられると言うことだ思います。そのことを信じて自分の精一杯で今日を生きられる人でありたいと思います。

君は愛されるため生まれた ヨハネの手紙 1 4章7節(きみは愛されるため生まれた)(聖書の話20)

「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです」

(ヨハネの手紙 一 4章7節)

今日の聖句は、ある意味キリスト教そのものを示す言葉ではないかと僕は思う。「愛」こそが、イエス様が伝えようとしたことの全てだと思うからだ。
イエス様が無実の罪で十字架にかかり、死ぬ事で、この世界に残したものは、「罪の赦し」だった。そこにはユダヤ教の宗教観が大きく関わっている。罪を赦すのは神様であり、赦される方法は神様への生け贄だという価値観。生け贄を神様に捧げる習慣や価値観がない日本に住む私たちにとって、キリスト教が伝えようとする愛を理解するのは難しいかもしれない。しかし、少し無理をして、その価値観をイメージしながらイエス様の生涯を学ぶと、キリスト教の伝えようとしている愛が分かってくる。それは、私たちが人生で罪を犯してしまった時、その罪を全て赦して、もう一度人生を歩むチャンスが、イエス様の十字架によって既に全ての人に与えられているという愛だ。

「不気味だな」と思う人も多いかもしれないなあと思う。2000年も前に十字架で死んだ青年の死が、自分の罪を赦すための生け贄だったと信じて、救われたと喜ぶ感覚に違和感を覚える人は多いだろう。「ほら、神様が私たちを愛してくれている!」と言われても、「うーん」という感じかもしれない。

今日の聖句は、その愛を実感する方法を伝えている。私たちに与えられている神様からの愛は、多くの場合、人を介して私たちのもとにやってくると僕は思う。私たちは、心から信頼できる友達に、生涯を共に歩むパートナーに、そして、愛して止まない自分の子どもに生涯の中で出会う。それは、無条件で愛してしまうほど愛おしい存在であり、不十分で、不完全であったとしても、「愛する」喜びを私たちは経験する。それは確かな事だ。
少しでも愛せたとき、そこには「幸せ」がある。そして、「愛する」こと「愛せる」ことは、「愛されている」ことに確信を与えてくれる。
愛するという実践の中で、神様が、愛し合う私たちを支えていることを知ることができる、と今日の聖句は言う。互いに愛し合えたとき、私たちが愛しあえるのは、神様に愛されたからだ、ということに気がつけると言うのだ。
神様は、私たちを愛して、この世に送り出して下さっている。どんなことが起こっても、絶望しないように愛を注いでいてくださる。不確かで疑いたくなる日もあるだろう。しかし、同時に、その言葉の力強さに魅力を感じ、励まされるのも事実だ。

今回は韓国で作られて、日本でも訳されて、広く歌われるようになった「きみは愛されるためうまれた」という曲の歌詞を紹介しようと思う。僕は日本で発売された同名タイトルのアルバムに「原田博行 with SIESTA」として参加して、この歌を歌わせてもらっている。歌う事で、不安は安心にかわり、疑いは信頼へとかわって行くから不思議だ。

「きみは愛されるため生まれた」(作詞、作曲のイ・ミンソプ公認訳)

きみは愛されるため生まれた きみの生涯は愛で満ちている
きみは愛されるため生まれた きみの生涯は愛で満ちている

永遠の神の愛は 我らの出会いの中で実を結ぶ
きみの存在がわたしには どれほどおおきな喜びでしょう

きみは愛されるため生まれた 今もその愛 受けている
きみは愛されるため生まれた 今もその愛 受けている

きみは愛されるため生まれた きみの生涯は愛で満ちている
きみは愛されるため生まれた きみの生涯は愛で満ちている

「赦し」という大逆転 ヨハネによる福音書 8章1節~11節(聖書の話21)

「イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、ご自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。『先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところであなたはどうお考えになりますか。』イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。』そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。』女が『主よ、だれも』と言うと、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。』」

ヨハネによる福音書、8章1節~11節

今回の物語は民衆に受け入れられ始めたイエス様を邪魔に感じている「律法学者たちやファリサイ派」というエリート集団の思惑の中で進められます。エリート集団は姦淫の罪を犯した女性の処遇をイエス様に尋ねます。もちろん悪意のある質問です。考えられるイエス様の答えは二つ。一つは「それならば死刑だ。皆で石打ちの刑に処せばいい」、もう一つは「その女を殺してはいけない」。
死刑を勧めた場合、イエス様の教えに集まった民衆はがっかりする。かたや、女を殺してはいけないとはっきり言ってしまうと、それは法律違反であり、イエス様を訴えることが可能になります。しかし、イエス様はそのどちらも口にはしません。かがみ込んで地面に何かを書き始めるのです。 授業で高校生にその動きについて、イエスの気持ちを予想してもらうと、「困っている」「いじけた」「法律を思い出している」「トンチがひらめくのを待っている」など、予想もしない答えが返ってきます。
このことに関する、加藤常昭先生の注解は見事です。「神も主イエスも私どもが声をかけても返事をなさらない時があると言うことを知らなければならない。」と先生は書いています。また、「私どもの祈りは答えられない時がある。私どもの問いかけは無視される時がある」とも。
つまり、イエス様は沈黙を持って、問いかける者に明確に答えているということになります。イエス様の側には、最初から迷いなどない。恐れているわけでも、いじけているわけでも、困っているわけでもない。答えるに値しないことだと無視し、対話を拒否しているのだと。 私は、祈りの中で「神様どうしてお答えにならないのですか」「なぜ、黙ったままなのですか」という問いを何回も発した経験があります。この問いは、特に自分が勝手に答えを用意して、神様に同意して欲しい時によく起こるように思います。ところが沈黙です。これはなかなかまずい展開です。本当に落ち着いて、自分のエゴを捨てて、耳を傾けると、耳の痛い答えが返ってくるパターンです。
今回のイエス様の答えは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」というものでした。予想された二つの答えではない、まさに耳の痛い答えです。

さて、私たちはこの場所にいたら石を投げるでしょうか。授業でその質問をすると、ほとんどの生徒は投げないと答えます。でもそうでしょうか。「僕は投げると思う」と私が言うと、少し意外そうな表情を生徒たちはします。私は、この場所にいたら石を投げたと思います。ただし、条件があって、誰か一人が最初に投げてくれたらです。誰か一人が石を投げたら、私も夢中で投げただろうと思うのです。合法的に人を殺せることに夢中になり、この街から悪を追放している正義に酔いしれて、投げただろうと思うのです。だって、法律で彼女は間違いなく死刑なのですから。イエス様が、「この街に罪を残しておいてはいけない、全員で、この人を裁こう」と力強く叫ばれたらなおのことです。「それはおかしい!」とは絶対に言わなかった、あるいは、言えなかったと思うのです。
この聖句において、自分を民衆の中に置いて読む時、私たちは、石を持って投げようとしている時にイエス様の言葉を聞いたと想像するべきだと思います。親子でその場所に来ていた人もいたかもしれません。「さあ、おやじ、一緒に投げよう!」と父を見たら、父が石を置いて帰っていく姿を息子は見たかもしれない。そして、我に返って、自分も石を置いてその場所を後にしたのでしょう。そういうギリギリのところで石は投げられなかったのだと思うのです。もし、無知な子どもが一つ目の石を投げたら、全員が一斉に石を投げたかもしれない緊張の中で、イエス様の言葉が響いて、奇跡的に一つ目の石は投げられることが無かったのだと思うのです。
とにかく石は投げられませんでした。そして、全ての人が帰っていきました。最後に残ったのは女とイエス様です。
実は、誰もいなくなった時、女は、背中を向けているイエス様に気付かれないように逃げてしまうことが出来たと思います。しかし、女は逃げませんでした。彼女は待っていました。石打ちの刑で殺される寸前にそれが中止になりそうなその状態の中で、最後のイエス様の言葉をただ待っていたのです。なぜ、彼女は逃げなかったのでしょう。なぜ、逃げることを思いつかなかったのでしょう。それは、おそらく、彼女が自分の死刑を受け入れていたからなのだと学んでいく中で気がつきました。自分の犯した罪で石打ちの刑に処せられることを彼女は覚悟していた。そして、最後の一人となったイエス様が自分にどのような態度をとり、どのような言葉を投げ掛けるのかを静かに待っていたのだと思うのです。
イエス様の言葉は彼女にとって意外だっただろうと思います。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
なぜイエス様は彼女を赦したのでしょう。イエス様も自分に罪があるから石を投げなかったのでしょうか。もしそうなら、この話は聖書に載せる価値がまったくない物語だと私は思います。「自分も含め、みんな悪いことをするものだから、赦しあいましょう」そんなことをこの聖句は伝えているのではありません。
最後のイエス様の言葉を聞いたのは女だけということになります。つまり、この経験をした女自身が、後、イエス様との出来事をキリスト教が形成されていく集団の中で話したということでしょう。彼女は、「もう罪を犯してはならない」というイエス様の教えを守った。守っただけでなく、その言葉の意味を深いところで理解し、キリスト教徒となっていったのだと思うのです。
自分の罪は死刑に値するということを受け入れていた彼女は、どのような意味でイエス様が自分を赦したのかをその日には理解しなかったでしょう。しかし、しばらくして、イエス様が十字架につけられて殺されるという事実を知ることになります。無実の罪によって十字架につけられたイエス様の死を彼女ははっきりと自分の身代わりとしての死だと感じたのだと思います。「わたしもあなたを罪に定めない。」と言うイエス様の言葉の後ろに、「私があなたの代わりに十字架につくから、心配しないでいい」という意味が隠されていたことに、彼女は気がついたのです。だから、自分の経験したことを語り続けたのではないでしょうか。そして、聖書にこの物語は書き加えられたのだと思うのです。

罪の裁きは、なし崩し的にごまかされた訳ではなかった。その裁きはイエス様の十字架によって確かに行われ、償われた。そのことを見逃してはいけません。
イエス様が罪を赦す人々は、本当に心から自分の罪を認めている人々です。誰もいなくなった逃げることが可能な状況の中で、罪を認め、最後の一人であるイエス様に、石で打ち殺される覚悟をしていたからこそ、女は赦されたのです。そして、二度と罪を犯さなかったのだと思います。彼女はイエス様に赦されて生まれ変わった。復活をした。絶望と悔いの終点で希望の大逆転が起こったのだと思うのです。
イエス様によって体験する大逆転。その大逆転は、私たち一人一人に与えられている希望なのだと思います。この物語のどこに自分を発見するか。罪を犯さずには生きていけない私たちは女の中にこそ自分を見出すべきなのかもしれません。

新しい命に生きる ローマの信徒への手紙 6章4節(聖書の話22)

「わたしたちは洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それはキリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」

(ローマの信徒への手紙6章4節)

この箇所を読んで、直感的に「ああ、『新しい命に生きる』という言葉は魅力的だなあ」と僕は思ったのだが、キリスト教徒でない学生や友達に、その話をすると、「あんまり意味が分からない。命に生きるって何?」というような感想が返ってきた。確かに難しいというか、独特な表現だ。「新しく生まれ変わる」ならどうか、「それなら少し分かる」と友達は言う。「新しく生まれ変わる、自分のままで」ならどうか「うん、輪廻天性みたいな感じか?」そんなやり取りが繰り返され、「いや、この肉体のままで、生まれ変わるんだけど」となると「あんまり分からない」ということになった。質問の角度を変えてみようと「新しく生まれ変わりたいか」と聞くと「いや、いまのままでいい」という。
だんだん分かってきたことは、まずは言葉がすっと入って来ないということ、そして、言葉の意味が分かってきても、今の自分に満足している人にとって、「新しい命に生きる」という言葉はそんなに魅力的ではないということだ。

「ローマの信徒への手紙」はパウロという人が、ローマのキリスト教徒たちに送った手紙とされている。この6章でパウロは信仰者になるという事を、「不義」から「義」へと変えられること、「罪や間違ったものに支配されていた状態」から「罪を赦され正しい事に支配されている状態」へと変えられることだと語る。そこには二つの視点が存在する。
一つは贖罪論の視点。イエス様の十字架での死を、キリスト(救世主)の血(死)による贖いとして理解し、イエス様の死によって自分の罪がすでに神様に赦されているという視点だ。もう一つは共死共生論の視点。「自分たちもイエス様に従う事で死を克服し、復活出来るのだ」という視点。
この贖罪論と共死共生論とを結合して、「イエス様の十字架での死と復活を信じる事で、私たちは罪から解放され正しいもの『義』に支配される者として神に認められるのだ」という、信仰義認論をパウロは今回の聖句に展開していると言える。

さて、聖句を最初から見てみよう。「わたしたちは洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ」。すでに難しい聖句だ。

バプテスマとは、もともと「水にひたす、沈める」という意味。キリスト教では多くの場合、信仰者になる時にバプテスマという礼典を行う。僕が信仰を受け入れた当時、僕が通う教会では加茂川の上流でバプテスマが行われていた。白い服をきて、教会員のみんさんが讃美歌を歌って下さる中、牧師の待つ川の中へと歩いて行き、牧師の「父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授ける」という宣言とともに、まさに全身を「沈められる」のだ。
見に来てくれていたクリスチャンではない友人が、終わった後、しみじみと「あれで何か変わったん?もうクリスチャンなん?」と聞いたことを思い出す。「分からん、あんまり何にも変わらん」と答えたのを覚えている。

聖句は「わたしたちは洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。」と続く。

ある解説に「これは『イエス・キリストの中に浸りきる』ということだ」というものがあった。キリストの中に、キリストの死の中にバプテスマされる、浸りきる。なかなか興味深い表現だ。「浸る」という言葉の持つ息苦しさこそが死であり、その先に復活がある。すなわちそれはキリストとその死との神秘的結合に入れられるということ。「その死にあずかる」とは、イエス様の十字架での死が、自分の命に及ぶということを示唆している。

聖句はこう続く。「それはキリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」

つまり「バプテスマを受けたものはイエス様と同じように十字架についたのだ、自分の罪の償いとして十字架にすでについたことになるのだ。そして、赦されて、復活することまで約束されているのだ。」と語られている。

学んで行くと今回の聖句がキリスト教を信じた人たちへ向けられた言葉だと分かる。
ふと、自分は新しい命を生きられているか、という問いが浮かんだ。確かにバプテスマを授けられた。しかし、相変わらず、罪を犯してしまう。この聖句は、そんな無力な信仰者を励ましている。バプテスマを授かった日、僕は何も変わらないような気がした。けれど、やっぱり、全ての事はあの日に変わったのだと思う。自分を支配しているものが変わったのだと思う。
パウロは未来を示しながら、「大丈夫だ、罪から解放されている、本当に意味のある人生を生きることが出来る、恵みを受け自由に生きて行けるはずだ」と語りかけてくれている。

自分にとっての聖句の意味を感じながら、信仰者でない人たちにとって、この聖句が何を語るかを考えていて、「やっぱり、信仰を受け入れていないと、この聖句に魅力はないかな」と友達に言うと、「いや、例えば健康を害して『癌かもしれない』と思った時に、うろたえる自分などに出会うと、信仰者はいいなあ、こんな時強いのだろうなあとは思うよ」という返事が返ってきた。随分、こちらの意図を汲んで答えてくれた、頭のいいコメントだと思う。しかし、同時に非常に大切な視点だと思った。
誰もが感じる死という絶望を目の当たりにした時に「復活」という「死と向き合いそれに打ち勝った出来事」が輝きをもって自分に迫ってくるのだと言う事に気付かせてくれたからだ。それは、キリスト教だけが提示出来る、イエス様の生涯と復活によって与えられている、あらゆる絶望を超えた希望なのだ。

先日「チャッピー」という映画を観た。人工知能の話だった。ロボットが心を持つようになる。ところが、諸事情でバッテリーがなくなり、自分は死んでしまうのだということに気がつく。ものすごい勢いで成長して行くロボットのチャッピーは、心を新しい体へと移すことを思いつくというお話だ。もう、その時点でファンタジーなのだが、一緒に観に行った友達に感想を聞いた時、「新しい体になれるのはいいなと思った」という言葉が返ってきた。消してしまいたい過去、どうしようも出来ない思い。そういう思いの中で生きている人が少なくないこともまた事実だ。

キリスト教において、「新しい命に生きる」ことはファンタジーではない。わたしたちはイエス様によって、新しい命に生きる事ができる。そして、それは全ての人に開かれたことだ。常に「死」はわたしたちの人生に用意されていて、罪の問題も、絶望も、それぞれの人生には必ず介入してくることなのだ。この聖句のメッセージは、全ての人に関係のあることなのだと認識を新たにさせられる。
そして、信仰を受け入れた者としては、「祈りの度に日々の自分の罪を悔い改める」という不完全な自分であっても、バプテスマによってすでに罪から神へと自分の支配者が変わり、新しい命を与えられていることを思う。それは、自分の力で変わったのではない。神様が見つけて下さって、変えられたのだ。神様は、全ての人に、まさに今、働きかけておられるのだと思う。「神様の側からの働きかけで自分自身について、もう起こってしまっている事実」として、それぞれに新しい命を生きている、生きて行ける、という喜びを見失わないでいたいと思う。

手とハート マタイによ福音書 9章18節~26節(手とハート)(聖書の話23)

イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたった今死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう」。そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄ってきて、後ろからイエスの服の房に触れた。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた、「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になって、言われた。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起きあがった。このうわさはその地方一帯に広まった。

(マタイによ福音書 9章18節~26節)

2014年、ハラダイス・ライブのテーマは「手とハート」だった。テーマが決まると同名タイトルの曲を書く。そして、そのテーマと向き合いながらライブまでの日々が進む訳だ。ちょうどその頃、礼拝のお話の依頼を機に、聖書の中に「手とハート」を探しに行ってみたことがある。
すぐに思い出したのは「出血が続いている女」のエピソードだった。一種の婦人病であり、汚れた病気と理解されていた病いに長い間苦しめられていた女性の話だ。
僕の記憶の通り、聖句には手にまつわる言葉がたくさん出てきた。「手を置いてやってください」「イエスの服の房に触れた」「触れさえすれば治してもらえる」「少女の手をお取りになった」
二つの物語が同時進行している今回の聖句。一つは、娘が死んでしまった指導者の物語、そして、もう一つは僕が思い当たった、十二年間も病に苦しめられている女性の物語だ。登場人物の二人は、どちらも、本当の絶望の中からイエス様に近づいて来ている。そして、触れてもらう事と触れる事でその絶望から救われるのだ。
奇跡は触れるという行動と、その行動を促した心、ハートが揃った時に起こったのだということを発見して、「手とハート」という言葉が、ますます好きになったのを思い出す。もちろん、僕の歌にはイエス様のような力はない。見捨てられた人々に振り向いて、あるいは、ついて行って、希望を与える。「死」という滅びの絶望にさえ打ち勝つイエスの「手とハート」には遠く及ばない。それでも、小さな希望を生む決意としてこの歌を歌っていけたらいいなと思う。

「手とハート」

歌声に手を叩く  雨上がりの青空
坂道を駆け上がり ハートはいつか一つに

伸ばした手は未来に 繋がる虹をかけて
さよならと始まりを ハートに映し出してる

想いに僕は愛を乗せて 会いに行こう 君へと
手とハートで伝えて
乱暴に時には野暮になって 会いに行くよ 君へと
自然な気持ちは止められないさ

手とハートで  手とハートで  手とハートで  手とハートで

結んだ手は確かに  言葉よりも確かに
勇気と希望を生み ハートを奮い立たせる

手作りの会場も 手を振る君の顔も
夕焼けに染められて ハートに刻まれていく

想いに僕は愛を乗せて 会いに行こう 君へと
手とハートで伝えて
乱暴に時には野暮になって 会いに行くよ 君へと
不自然になっても構わないさ

想いに僕は愛を乗せて 会いに行こう 君へと
手とハートで伝えて
乱暴に時には野暮になって 会いに行くよ 君へと
自然な気持ちは止められないさ

手とハートで  手とハートで  手とハートで  手とハートで