小さい者 マタイによる福音書 18章10節~14節(聖書の話6)

「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば。九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずに九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたの天の父の御心ではない。」

(マタイによる福音書 18章10節~14節)

今回の聖書箇所はキリスト教の世界では、非常に有名な箇所だ。讃美歌にもなり、教会学校で子供たちへのお話にもよく使われる箇所。でも、みなさんにとっては初めての聖句かもしれない。物語は非常にシンプルだ。もう一度読んでみよう。

「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば。九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずに九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたの天の父の御心ではない。」

この譬え話について、今回は考えてみたいと思う。

僕の仕事の一つは、シンガーソングライターだ。音楽を奏でて、人の前に立ち、歌を歌う仕事だ。そしてもう一つは、高校の先生。教壇に立ち、授業をする仕事だ。毎日のように人前に立つ。そういう仕事につくと、沢山の人を相手に、例えばメッセージを発信するということに、何か、特別な権限を与えられているような錯覚に陥ったりしてしまう。
音楽はお金を払って観に来てくれている人が相手だから、お客様の立場が上と考えている時もあるのだが、ファン相手となると、もう、こちらが歌ってあげてるという気分についついなってしまったりする。授業だと、なおさら、学生は聴くのが当たり前、という気分になって、こちらが面白くない授業をしていても、聴いていない学生を平気で注意するということも起こったりする。もちろん、いつもエンターテイメントとして成立している授業である必要はなく、眠くなる、退屈な、けれど大切な授業もあるとも思うのだが。

そういう仕事をしているものだから、今日の聖句を読んだときに、最初、授業での出来事を思い出した。

ある年、非常に態度が悪く、私語の多い学生さんがいた。何回注意しても、落ち着く気配がない。おまけに、僕のことを嫌っているようだ。
これは余談だが、学生というのは結構残酷で、平気で「面白くない」だとか「つまらない」だとか、聞こえる声で「だるい」あげくのはてには「きもい」だとかを口にする。教師は傷つかないと思っているようだ。実は、かなり傷つく。失礼、完全に脱線した。
まあ、その学生は特別で、クラスの中でも少し浮いた存在、手を焼いている、同級生たちも持て余している存在になっていたように思う。だから、その学生が騒いでいる事を「無視」するという方法で授業を進めても、比較的他の学生からは受け入れられそうだという雰囲気だった。
ある日、彼女の態度があまりにひどかったので、「授業を進める為だ。うるさい事はみんなにちょっと我慢してもらって、存在しないものとして無視させてもらおう」という気持ちが僕の中で一瞬起こった。
その気持ちを持った瞬間に、僕は自分のことが恐ろしくなった。授業を司るものが、自分のクラスの学生をいないものとする。そんな傲慢で自分勝手な決断が許されるはずがない。人の存在を消す権利など、人には与えられていないと思うのだ。
今日の聖句を、僕は、人の前に立つ、あるいは上に立つ人間へのリーダーシップのあり方への提案だと感じて読んだ訳だ。ところが、いろいろと注解書などを調べていて、ある説教者の言葉に、またドキッとさせられた。

以下が抜粋。
「小さい者の小ささは、私どもが、それだけ自分を大きくしているしるしです。自分がそれだけ大きくなったつもりで小さく見ている人びと、それが『小さいもの』なのです」

みなさんは、今日の聖句のどの場所に自分を見いだすだろう。羊飼いにだろうか、迷い出た一匹の羊にだろうか、残された九十九匹の羊の中にだろうか。
ミュージシャンや教師をしていると、ついつい、自分は羊飼いだと勘違いをしてしまう。羊飼いと類似する責任を持っているのも事実だが、自分だけが大きい者という、傲慢な勘違いをしてしまう訳だ。先ほど、余談で学生は残酷だ、教師だって傷つくと書いたが、それは、自分を大きく見せているから、学生に人間扱いされないという事の結果なのかもしれない。

あの日、学生を無視しかけた僕は、まさに、迷い出た羊だった。愛すべき自分の学生を愛する事ができない、惨めで無力な小さな者だった。そういう小さな者、自分の罪に自分の存在を見失いかけた者を、神様は、イエス様は決して見捨てないということをこの聖句は伝えている。
世の中に見捨てられ価値がないと判断された者を神様は探し求めてくださる。そして、救って、喜んでくださるというのだ。
喜んでいるのは誰か。このたとえ話では、羊飼いだ。僕にしつこく注意された学生はおそらく喜んでいない。授業の進み具合が悪くなる事を我慢している他の学生たちも、やっぱり喜んではいないだろう。羊は、もっと遊んでいたかったかもしれない。けれど、その先には闇と死が待っている。無視された学生は未来を失い、無視した僕は、教師としての意味を失ってしまう。そういう無力な私たちを神様は一生懸命見つけ出すと約束をしてくれる。
僕を含む、この文章を読んで下さっているみなさん、つまり私たちこそが、みな「小さい者」なのだと僕は思う。それぞれが道に迷い、人生に不安を抱きながら、一生懸命生きている。その私たちを神様は、イエス様は探し出してくださる。それは、ありがた迷惑な話かもしれないけれど、やっぱり、ありがたくて、安心できる、素敵な事だとも感じる。

友のために マルコによる福音書 15章12節~13節(聖書の話7)

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」

(マルコによる福音書 15章12節~13節)

この聖書箇所で説教を予定していた前日、友達がやっている喫茶店でお話の準備をしていました。女性の店主で美味しいコーヒーを入れてくれるので、よく仕事の合間を縫って立ち寄るの喫茶店です。その友達に、この聖句の感想を聞いてました。ちょうどカウンターに僕一人という状態だったのです。聖句を読み上げると、
「今時?この時代に?命をすてる?どんなシチュエーションですか?戦争ですか?あ!比喩?例え?」と矢継ぎ早に質問が返ってきました。
確かに、「友のために自分の命を捨てる」なんていう状況にこの現代の日本で遭遇するとは思えないという彼女の感想は、至極当然のような気もします。聖書に慣れ親しんでしまって、僕の方は気がつかなくなっている。その言葉の現代に対するギャップ、違和感を感じる力がいつの間にか落ちてしまっているなあと改めて思いました。
そこで、この聖句をどう解釈すればいいのかを考えるのでちょっと付き合ってもらえないかと、協力をたのみました。随分迷惑なカウンターのお客です。相変わらずカウンターには僕一人という状況でした。まあ、もう閉店前だったのですが。
最初に思いついたのは、最近の彼女の周囲での出来事でした。彼女には片思いの相手がいたのですが、最近、その男性に新しい彼女ができたらしいという出来事です。その報告がなかなか素敵な報告で、「新しい彼女があまりに素敵なので、自分の思いが片思いで終わって行くことが、本当に腑に落ちた。この恋とはきっぱりお別れできそうです」という報告だったのです。
例えば、自分の想いを成就する事だけに興味があったのでは、そんな報告にはならないように思うのです。そこには、自分の想いが犠牲になっても、大切な人にとって、本当にいいことが実現するならそのことを喜ぶという愛情があるように感じました。片思いの相手ではありますが、友として、その相手の幸せを喜ぶ姿があるのではないかと感じたのです。彼女の方は、全く腑に落ちていないようでしたが。
とにかく、「命を捨てる」とは、そういう、自分の思いを尊重するのではなく、相手のことを考えるということなのではないか、と説明しました。「命を捨てる」ではなく、「人生を投げ打って」とか「犠牲を払って」なら分かる?と聞いてみると、「うん、まあ、それならばなんとなく分かる」ということでした。

命とまではいかないが、犠牲を払った事がないか、今度は自分自身の経験に問いかけてみました。いつも、自己愛ばかりが先行して、我がままに生きているという事例ばかりが頭に浮かびました。それでも、何回かに一回は、自分が損をする決断を友のためにすることはあります。そういう決断をして犠牲を払うと、それ以上の大きな見返りというか、恵みがあることにも思い当たりました。

さて、この聖句は、そういう処世術的なことを伝えようとしているのでしょうか。

弱い僕らには、何回かに一回、自己犠牲を払って、及第点の愛情を示せたと自己満足する道も許されてはいるでしょう。しかし、この言葉を語っているイエス様の状況を考えてみると、全く違う感想を持ちます。この言葉を語った後、翌日にはイエス様は無実の罪で十字架にはりつけにされ、本当に死んでしまうのです。
イエス様の人生の中で、この言葉を読むと、本当に「自分の命を捨てる」というその言葉の通りの人生が浮かび上がります。イエス様は無実の罪で十字架にはりつけにされ死んで行きます。イエス様は人々の罪を償うためのいけにえとして自分の死を受け入れたのだという事が、聖書を読んでいると分かってきます。それは、私たちが、死を持って償わないといけないような罪を犯したとき、身代わりになって死んでくれる人がいる、すでに存在したということを意味します。そのことを信じれば、罪が赦されるということが聖書の中では約束されているのです。
そこには、当時のユダヤの民のいけにえの習慣や、罪は神に赦してもらうものだという価値観が存在するので、「イエスの十字架の死の意味」を、現代の日本に生きている私たちが、直感的に理解するのは難しいかもしれません。
ただ、「友のために自分の命を捨てる」この言葉をイエス様が自分の人生の終わりに語ったことを思う時、イエス様が、弟子を、あるいは広い意味ではキリスト教に出会う私たちを含む全ての人たちを「友」と呼んだのだということに気がつきます。
私たちを「友」と呼び、そして命まで差し出してくれるのです。ちょっと気持ち悪い話かな?嫌悪感を持たれるかな?と思いながらカウンター越しに説明をしてみました。

彼女は「うん、それはありがたいかもなあ。だから、そういう風に愛しあえってことね」と今度は意外にもすんなり話を受け入れます。僕が勝手に難しいと感じている部分は案外簡単なのかもしれません。どうやら僕は、すっかり「聖書おんち」です。

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」

「これ以上に大きな愛はない」という愛はすでにイエス様によって示されている。それは、私たちに向けて示されている。まずはそのことを喜ぶことから始めればいいのかもしれません。
そして、わたしたちは、互いに愛し合うことを努力すればいいだけなのかもしれません。友のために、本当に自分のエゴを押し殺すべき時が来たときに、イエス様の言葉はその決断の勇気の源になるでしょう。損をしたと感じるのではなく、友を愛せる喜びを感じられる人でいたいなあと思いました。

君が一緒にいてくれる日 マタイによる福音書 6章6節(君が一緒にいてくれる日)(聖書の話8)

「だから、あなたが祈るときには、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」

(マタイによる福音書 6章6節)

先日「一人でいる日」という文章を読んだ。ボンヘッファーという神学者の「共に生きる生活」という小さな書物の中の文章だ。「神と一人で向き合うことなしに、教会で信仰者同士が交わることは難しい」また「本当に人との交わりを望むなら、一人でいることができる人になる必要がある」というような内容だった。はっとさせられる思いがした。

私たちの時代は、なかなか一人でいることを許してくれない時代だ。Smart phoneはどこまでも「繋がる」ことを要求してくる。LineやMail、TwitterやFacebookでのやり取りは、私たちを孤独から救ってくれるようにも思える。でも、冷静になって考えると、本当は何も繋がっていないことを誤魔化してくれているだけのようにも思えてくるのだ。高校生を見ていても、学園祭の前などは、慌ただしく過ぎる毎日の中、つながり続けることを余儀なくされ、一人になりたくても、一人になれない、そんなストレスを気が付かないうちに抱えてしまっている人が案外いるのかもな、と勝手に思ったりする。大きなお世話だが、「しんどいこともあるだろうな」と思ったり。そして、それは自分自身にも言えることだったりするのだ。

今日の聖句は、祈るときには一人きりになり、祈っている姿を人に見せないようにしなさいと語っている。一人きりになれたとき、神様が見つけてくれていることに気が付くだろうと語っている。

沈黙の先に音楽が聴こえてくるように、一人になった先に繋がりは見えてくるのかもしれない。そんなことを思いながら、少し前に「君が一緒にいてくれる日」という曲を書いた。実は、どんな場所にいようとも、目を閉じればそれぞれが一人になることができる。ひと時、一人になって神と向き合う時間を作ることはできる。寂しさをごまかすのではなく、受け止めることの大切さを思う。

今回は「君が一緒にいてくれる日」という曲の詩を紹介しようと思う。

「君が一緒にいてくれる日」
今日は一人でいる日だ メールも電話も がまん がまん
こんな日があるから 君が一緒にいてくれる日を喜べる
逃げ出さずじっと受け止める一人でいる日

カーラジオ流れる曲が沈黙と孤独和らげる
神様に愚痴をこぼして 打ち明けるように呟く高速
うまくいかない昼の出来事 思い巡らし踏むアクセル

今日は一人でいる日だ メールも電話も がまん がまん
こんな日があるから 君が一緒にいてくれる日を喜べる
逃げ出さずじっと受け止める一人でいる日

透き通る夜 雨上がり 街の灯りと流れる雲
小皿みたいに浮かぶ月 空に向かって伸びてる高速
落ち込む気分 冷たい風に乗せて飛ばして踏むアクセル

今日は一人でいる日だ メールも電話も がまん がまん
こんな日があるから 君が一緒にいてくれる日を喜べる
逃げ出さずじっと受け止める一人でいる日

君をそばに感じている一人でいる日

罪は赦される ヨハネによる福音書 20章19節~23節(聖書の話9)

「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち『あなた方に平和があるように』と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』」

(ヨハネによる福音書 20章19節~23節)

今回の聖句は金曜日に十字架にかかって死んだイエス様が、日曜日に弟子たちの前に現れた時の記述だ。今や死刑囚の弟子となったイエス様の弟子たちには、社会からの迫害の危機が迫っていた。それでも、弟子であることを諦めて逃げてしまうのではなく、恐怖を感じながらも家の戸に鍵をかけて、彼らは集まっていたということになる。

「あなたがたに平和があるように」

その言葉は、彼らの心の不安への言葉だ。「大丈夫、安心しなさい、私だ」とイエス様は言う。
さて、「死んだ人間の復活」という視点でこの物語を見ると「眉唾物だな」などと感じてしまう。「あり得ない出来事だ、バカバカしい」となってしまう。しかし、弟子の気持ちになって読み取ると、弟子が「喜んだ」という気持ちを、素直に受け入れることができることに、ある時僕は気がついた。そりゃあ嬉しかっただろうと思うのだ。だって、会いたくても会えないと思っていた、死んだはずのイエス様が目の前に現れたのだから。イエス様が肉体を伴ってそこに現れたかどうかを知る事は出来ない。しかし、少なくとも弟子たちはイエス様をそこに感じ、イエス様の声を聞いたのだろう。そして、再会以上に嬉しい言葉がイエス様から弟子たちに発せられる。

「わたしもあながたを遣わす」

弟子達に、イエス様が、この先の人生の指針を与える瞬間である。

イエス様は彼らに息を吹きかけたと書かれている。高校の授業で、この場所の解説をするときに、学生たちが、どのようにこの言葉を読んでいるか、素直にそのシーンを演じてもらったりする。フーと優しく息を吹きかける学生もいれば、「ささやくような小さい声で言ったということでは?」という学生もいる。役者になったと思って、どう演じるかを考えるとなかなか難しい記述だ。
僕は、「息」と訳されているギリシャ語が「風」あるいは「聖霊」とも訳せる言葉であることから、「彼らに息を吹きかけた」というイエス様の動きではなく、弟子の側に、息を吹きかけられたような気持ち、もっと言うと、鳥肌が立つような、ビビビッと来るような湧き上がる力が吹き込まれたような感覚があったのではないかと解釈している。これからの人生に意味を与えてもらった!という喜びからくる感覚だ。弟子たちは失意と絶望の中にいた。未来を見失って、それでも諦められずに集まっていいた。そこに、イエス様がやって来て、「落ち着け、安心しろ、お前たちには仕事がある」というのだから、やっぱり嬉しかったと思う。

彼らへの指示はこのようなものだった。

「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

この言葉は、二つの読み方ができるように思う。一つは、「はい、あなたの罪は赦されません」というように、弟子たちに、彼らがこれから出会う人々の罪を赦すか赦さないかを決定する権限を与えるという読み方。意地悪な言い方をすると悪い人間をさばいて、天国に入れない、あるいは地獄へ落とす権限を弟子に与えるという読み方だ。もう一つは「おまえたちは、これから、人々の罪を赦してまわるのだ。もしさぼって、罪を赦す事を怠ると、その人たちは天国に行けないようになってしまう!人生をかけて、赦してまわりなさい、救ってまわりなさい」という読み方。随分印象が変わる。そして、僕は、イエス様が言わんとしたことは後者の読み方に近いのではないかと考える。

僕は度々、自分のライブのお知らせを友人たちに送るのだが、先日、そのお知らせをFACEBOOKで友達になっている人に送るという作業をした。1000人以上いるFACEBOOK上での友達の中から、関西にいる人たちを選んで一人一人にメールを送った。最初は適当に送ろうと思っていたのだが、「この人にも送らないと、あ、この人にも…」というように、だんだん増えていって、結局600人くらいになったと思う。6時間くらいやっていたのではないだろうか。「お知らせするべき人をこぼしてはいけない!」と思うと、どんどん人数が増えていくのだ。僕が知らせなければ、その人が知らないまま僕のライブは終わっていってしまうのだ。…まあ、僕のライブは終わってしまっても特に問題はないのだが。

そういう一生懸命さで、罪を赦してまわりなさい、とイエス様は弟子たちに伝えたのだと思うのだ。
「罪を赦す」それは、イエス様が生涯をかけて行ったことだ。イエス様は、人々に嫌われた罪深い人たちを孤独から救い上げ、愛して、そして、その罪を赦して回った。
どうやって。
死刑にも相当する彼らの罪をどうやって赦したのか。
イエス様がしたことはたった一つだ。イエス様の言葉を信じる人たちに「あなたの罪は赦された、あなたの信仰があなたを救ったのだ」と伝えただけだった。
なぜその言葉をイエス様は言うことができたか。それは、彼が、無実の罪で十字架につく覚悟があったからだと思う。「あなたはもう一度やりなおせる。死刑に相当するあなたの罪の償いは私が引き受ける」とイエス様はその命によって罪の赦しを示す覚悟をしていたのだ。
そして、事は起こった。イエス様は本当に無実の罪で十字架についた。
弟子たちはその一部始終を分からないなりに見て来た人たちだった。今、イエス様に言われて、すべてのお膳立てが整っていることに彼らは気がついた事だろう。「あなたたちは、私が無実であることを知っている。そして、十字架を見た。その十字架は全ての人の罪の身代わりとしての十字架だった。全ての人の罪は、この後、私の十字架によって赦される。そのことを伝えて回る事、それが、これからのあなたたちの人生だ」という訳だ。
罪を赦される事、それは人生を取り戻し、希望の中に生きる自分を取り戻すということ。それこそが、キリスト教が私たちに伝えている一番シンプルなメッセージだと僕は思う。

小さな奇跡 マタイによる福音書 25章31節~40節(小さな奇跡)(聖書の話10)

「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」

(マタイによる福音書 25章31節~40節)

この聖句はこの世の終わりの時についての記述だ。天国へ招かれる人々はどのような人かを例えたこの聖句。この世での私たちの行いの中で、神様が高く評価し、喜んで下さるのはどのようなことなのかが、この聖句には示されている。それは、何か大きな仕事をしたり、大成功をおさめたりすることではなく、小さい者への小さな親切だったりする。
その行い自体は難しいことではない。僕らの手の中にある日常的な事柄だ。毎日の中にある。でも、それを大切にし、実行する事は本当は難しいことなのだとも思う。
日々の中で出会う人をしっかりと愛する難しさ。私たちは、遠く離れた所で起こる大惨事に関心を示し、自分の出来る事をしようとしたり、手を差し伸べようとする。その一方で、近くにある悲しみや、隣にいる友の心の傷に気がつくことが出来ないこともしばしばだ。手を差し伸べる事に躊躇してしまっている自分を感じる事さえある。
しかし、それこそが、私たちが生きて行く上で神に要求されていることなのだ。

少し前に「小さな奇跡」という曲を書いた。今回はその歌詞を紹介しようと思う。今日の聖句が語る内容と共に、詞を感じてもらえると嬉しい。

「小さな奇跡」

世界を救うために  嵐を遠ざけ波を止める
そんな力 僕らにはない

ただ向き合って目の前のその人を愛する勇気だって
小さなそれは奇跡
やがて世界さえ救うような奇跡

未来を変えるために  星を降らせ太陽を隠す
そんな力 僕らにはない

ただ向き合って目の前のその人を愛する勇気だって
小さなそれは奇跡
やがて未来さえ変えるような奇跡

心が揺れて 瞳が動いて 涙流れて繋がって

ただ向き合って目の前のその人を愛する勇気だって
小さなそれは奇跡
やがて世界さえ救うような奇跡
未来さえ変えるような奇跡

信仰と天国 ヘブライ人への手紙 11章1節(Heaven)(聖書の話11)

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する事です。」

ヘブライ人への手紙 11章1節

今回は天国についての話をしよう。
あなたは天国をどのような所だと考えているだろう。死んだ後に行く場所だろうか。天使がいて、美しいお花畑を流れる川の横でハープを弾いている女性が見えたりするだろうか。美味しいものが自由に食べられる場所、美しい女性やかっこいい男性が沢山いる場所、望むことが全て叶う世界。
しかし、そうやっていろいろイメージしてみて、その場所に暮らす自分を想像してみると、その世界は実は退屈なのではないかと僕には思えてくる。

そんな退屈な世界が天国だとは僕は思わない。世の中で目にする天国の描写は、最高に刺激的で気持ちのいい瞬間を、人間の貧困な想像力で語ろうとした結果でしかないように思う。

「死後、天国へと登って行くことが人生の目的である。よく生きる事はよく死ぬことだ。」確かに、キリスト教にはそういう考えを促す部分がある。しかし、私たちに分かるのは生きている間に確かめられることだけだ。死んだ後の事は、どうやったって分からない。聖書は天国があると約束している。でも、そのことを生きたまま証明する事は出来ないという訳だ。

今回の聖書は言う。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する事です。」

論理的証明は出来ないが、感じることは出来る。経験が確信を導くことは起こる。私たちは生きている間には天国に行く事は出来ないのかもしれない。それでも、天国を予感することは出来るように思うのだ。僕は、時々、永遠が瞬間の中に落ちてくるということを経験したりする。素晴らしい音楽や芸術とふれあう時、友達の優しさや愛に出会う時、「奇跡」だと感じる様々な瞬間に永遠を感じたりする。それは、垣間見える天国的なものだと僕には思えるのだ。
「死ぬまでは本当には分からない。でも永遠に続いて欲しいと感じるこの瞬間の中に吸い込まれるような幸せが天国にはあるのかもな。」そんなことを感じながらHeavenという曲を作った。今回はその歌詞を味わってもらえればと思う。

「Heaven」

天国はこの世にあるって教えてくれた君 目に見えないけれど感じるのが本当の証
天使は気まぐれでも応援してくれる 前を向けるよほらキスしてハグして

Every day every night 一つの愛求めてる
Every day every night 小さな命が生まれてる

神様がそこに降り立って微笑む瞬間を 書き留めて歌おうとしたら嘘だけが残った
確かな気持ちだけなら僕は君に夢中 前を向けるよほらキスしてハグして

Every day every night 君のこと考えてる
Every day every night 手を繋ぎ生きて行ける

人生は不思議な糸で繋がった誰かと たぐり寄せ合って抱き合い
創り上げ 赦し合い 笑い合う 美しい毎日

Heaven knows, every night 一つの愛求めてる
Every day every night 小さな命が生まれてる
God only knows, every night 君のこと考えてる
Every day every night 手を繋ぎ生きて行ける

Every day every night 一つの愛求めてる
Every day every night 小さな命が生まれてる
Every day every night 君のこと考えてる
Every day every night 手を繋ぎ生きて行ける

生誕劇の宿屋の主人 ルカによる福音書 2章6節~7節(聖書の話12)

「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」

ルカによる福音書2章6節~7節

今回は、自分にとって一番正直なクリスマスについてのお話を紹介しようと思う。クリスマスによく教会学校なんかで子供たちによって演じられる、イエス様が生まれる夜までの出来事を描いた「生誕劇」についてのお話だ。

生誕劇の第1シーンは天使がイエス様の母となるマリアのところに訪れるというシーンから始まる。マリアは自分の前に現れた天使から、自分が神の子どもを身ごもっていることを伝えられる。その不思議で神秘的な天使からの告知を、マリアは神様からの言葉として信じ、素直に受け入れる。この第1シーンの登場人物は天使とマリア。
第2シーンは、マリアの夫のヨセフの夢の中に天使が現れるシーン。ヨセフもまた、天使によってマリアが神の子どもを身ごもっていることを知らされる。ヨセフにとって、辛く厳しい知らせだったと思うのだが、ヨセフは神様からの言葉としてその知らせを受け入れる。マリアがまずは一人きりで天使からの知らせを受け止めたように、夫ヨセフも神に委ねられた自分の役割を一人きりで受け止めている。この第2シーンの登場人物は天使とヨセフだ。
第3シーンは、当時の皇帝アウグストゥスからの勅令によって、住民登録のために、ヨセフとマリアが、ナザレという街から自分たちが生まれたベツレヘムという街へやってくるところから始まる。二人がベツレヘムにたどり着いてみると、登録の為に故郷に帰ってきた人たちで街はごったがえしていて、泊まる場所が見つからない。今夜にもマリアが子どもを産みそうだというのに、どこにも部屋を見つけられない。何軒目かの宿屋で「馬小屋なら空いているよ」と宿屋の主人に言われるというシーンだ。この第3シーンでは混雑する街の人をバックにヨセフとマリアと宿屋の主人の3人が登場する。
第4シーン、時間は少しさかのぼる。星を通して様々なことを知ることが出来る、いわゆる占星術の学者たちが「ユダヤ人の王がお生まれになったのではありませんか」とその時代のユダヤ人の王であるヘロデのところへと訪ねて来るシーンだ。もちろん星が知らせている「ユダヤ人の王」はヘロデ王の子どもではない。小さなベツレヘムという街の馬小屋で生まれるイエス様を知らせているのだ。当ての外れた占星術の学者たちはヘロデ王のもとを去り、「ユダヤ人の王」を探す旅に再び出かける。そして、行く先を示す星に導かれて、生まれたばかりのイエス様のいる第3シーンで出てきた馬小屋へとたどり着くのだ。第4シーンの登場人物は占星術の学者たちとヘロデ王。占星術の学者たちを導く動く星の役も時々ある。
第5シーンは、イエス様が生まれる夜に野宿をしている羊飼いたちのシーン。自分たちを救ってくれる「救い主」を待ち望んでいる羊飼いたちのところに天使たちが現れる。そして、「救い主」が今夜誕生し、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ていることを知らせる。羊飼いたちは喜び勇んで「救い主」を探しに出かける。第5シーンの登場人物は、羊飼いたちと天使たち。
最後のシーンはあの馬小屋の中だ。駆けつけた羊飼い、たどり着いた学者たち、彼らに囲まれてヨセフとマリア、そして飼い葉桶の中に幼子イエス様。そのすべてを見守る天使たち。救い主の誕生を祝う美しいシーンで生誕劇は幕を閉じる。

順番や登場人物の人数やシーンの数には差があるが、だいたいこのような物語として、生誕劇はクリスマスになると世界中の教会で演じられている。

僕の家はプロテスタントの教会で、高校生になるくらいまで、毎年クリスマスになると、教会学校で生誕劇をやらされた。当時牧師だった父、教会学校の先生である母、そして姉と妹。家族をあげて12月はクリスマス祝会の準備だ。僕が子どものころは自宅を開放して礼拝を行っていたような小さな単立教会だったから、毎年何かの役がまわってきた。結果的にマリア以外のほとんどの役をやることになった。

ある年、クリスマスが近づいてきた頃に、妹から興味深い提案があった。
「生誕劇でさあ、全員が自分のやりたい役を演じるのって無理かなあ」というものだった。「私は羊飼いがやりたいねん」と妹が言う。理由を聞くと「だって、ひたすらに待ってて、天使が知らせると疑いもせずに喜び勇んで駆けつけるんやで、その単純な感じが好きやし、そうありたいと思うんやんか」と言うのだ。妹が続ける。「お父さんは占星術の学者やと思うんやんかな、疑って、疑って、自分の力で真実にたどり着きたい、みたいなところあるやん」牧師も家族にかかるとめった切りである。「お母さんは多分天使やで、知らない間に大切なことを人に伝えてな、お知らせ運ぶ役がぴったりやろ」納得のいく解説である。小さな教会なので、この面白い話はすぐに広まった。マリアをやりたいと言う人、マリアを支えるヨセフをやりたいと言う人も現れた。
しかし、この計画は実現しなかった。教会に通う人たちが集まって、心からやりたい役を告白すれば「ヘロデ王」をやる人が見つかるわけがないのだ。
さて、僕はと言えば、「お兄ちゃんは何がやりたい」と言われて、随分困ってしまった。羊飼いほど単純じゃない、占星術の学者ほど熱心じゃない、天使なんてあり得ない、さすがにヘロデはやりたくない。「ほかにないの」と聞くと、「うーん、あとは宿屋の主人かなあ」と妹が言う。びっくりするくらいしっくりきたのを思い出す。「あ、俺、宿屋の主人がいいわ、めっちゃやりたい」妹は爆笑した後「うん、向いてるかもな」と言った。

ヨセフとマリアに馬小屋を貸した宿屋の主人。ゆっくりと聖書を読み返してみると、そんな宿屋の主人も「馬小屋なら空いているよ」というセリフも聖書の中には存在しないことが分かる。もしかしたら、ヨセフとマリアは勝手に馬小屋を使ったのかも知れない。聖書には「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」とあるだけだ。それでも、僕はやっぱり宿屋の主人を演じたいなと思うのだ。
主人は世の中で戦っている。住民登録というめったにない商売のチャンスでてんやわんやの大忙しの中にいる。おそらく、自分が貸した馬小屋で生まれた赤ちゃんの誕生が2000年後も世界中で祝われるなんて、これっぽっちも思っていないだろう。そして、死ぬまで、自分が何をしたか知らないままだったと思うのだ。僕は彼が罪を犯したとは思わなかった。神様には随分失礼な話だが、ぎりぎりのところで、偶然にもヨセフとマリアをそして神の一人子の誕生を手伝った存在だったと感じたのだ。ことの真相を分かっていれば、自分が野宿をしてでも自分の部屋に泊まってもらうべきだった。大金で宿泊客を追い出して、スウィートルームを用意するべきだった。でも、彼がしたことは、最低の最低の最低限の親切だったと思うのだ。きっと清潔ではない、匂いだってする、眠ることも難しいような馬小屋を用意しただけだった。それでも、屋根があることでヨセフもマリアも少しは助かっただろうと思うのだ。
宿屋の主人は、この世の中と聖なる世界の境界線に立っている。自分の役割も分からずに、ぎりぎりのところでこの世に聖なるものを引き寄せる小さな仕事に携わった存在だ。
キリスト教学の講師をしながらシンガーソングライターとして音楽の仕事をしている僕は、この世の中が大好きで、この世の中での成功を夢見て一生懸命仕事をして、時には不信仰だとクリスチャンに怒られながら生活している。そんな僕にとって、宿屋の主人は魅力的な役だった訳だ。

今、このブログを読んで下さっている皆さんの中には、羊飼いのような人も、占星術の学者のような人も、天使のような人もおられるだろう。もしかしたら、マリアやヨセフのように特別なことを神から任されている人もおられるかもしれない。でも、多くの人は、宿屋の主人のように、自分の行いの意味さえ分からないで日々を過ごしているのではないかと思うのだ。僕らの日々の行いが、意味は分からなくとも、何か神様の役に立っているなら素敵だなと思いながら、クリスマスに、主であるイエス様の誕生を心からお祝いする想いを、皆さんと共有できるなら嬉しいなと思う。
メリークリスマス!よいクリスマスをお過ごし下さい!!