さよならエデン  創世記 3章23節(さよならエデン)(聖書の話46)

主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、
彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。

創世記3:23

旧約聖書の一番最初は天地創造の物語だ。この世界が生まれて、神様が私たち人間をお造りになる物語。今回の聖句は、最初の人間、アダムとイブが神様との約束を破って豊かで何不自由ないエデンの園を追われることで、人間の歴史が始まるシーンだ。

神のように善悪を知る木の果実を食べてしまったアダムとイブは、産みの苦しみ、労働の苦しみ、そして死を与えられる。
もし、アダムとイブが蛇の誘惑に打ち勝ち、神様との約束を守っていたら、私たちは今もエデンの園で暮らしていたかもしれない。けれど、人間はエデンの園を追われてしまった。生きることに苦しみが伴う世界へと追い出されてしまった。私たちが今生きているこの世界だ。私たちは、エデンの園に帰ることはもうできないだろう。

神話として、天地創造の物語を読むとき、そこには、聖書の人間観が読み取れる。神様のように善悪を知りたがる人間の傲慢でエゴイスティックな罪性が描かれている。繰り返し繰り返し、人間は神様になろうとして果実を求め、何度もエデンを追われて来たようにも思う。
例えば、原子力を手にしたり、子供を生み分ける技術をものにしようとしたりする。自分たちの手の中に自分たちを滅ぼしてしまうかもしれない力を求めてしまうのだ。
まだ発展途上の科学技術の不完全さを頭ごなしに否定するのはもちろん間違いだろう。たとえば人間に原子力を完全に「アンダーコントロール」できる時がこの先に来るのかもしれない。けれど、今現在の状況の中に、「神のように物事を操れる人間」としての欲求や傲慢をどうしても感じてしまうのだ。
人間は神様にはなれない。全てを知ることはできない。分を知り、謙虚に生きて行くことが要求されているように感じる。

それでも、僕は、不自由で、苦しみのあるこの世界で生きることを、素敵なことだなと思っている。この世界に生まれてよかったなと思うのだ。
神様は、アダムとイブが約束を破ったとき、二人を裁いて殺すこともできただろう。神様との約束を必ず守る新しい人間を作ることも。けれど、そうではなく、二人に、私たち人間に、エデンを出て生きて行くことをお与えになった。そこには親のような愛があるように思えるのだ。エデンの園がどんなところか、僕の想像力でははっきりとはわからない。本当はこの世界とは比べものにならないくらい幸せな場所なのかもしれない。ただ、なんとなく退屈で魅力がない世界のようにも思えるのだ。それは、この世界しか僕が知らないからだ。そして、それでいいと思うのだ。全てはわからなくても、幸せを感じ、日々に満足することは与えれれているように思うのだ。僕にわかっていることは、この世界を生きていかなければならないということ。そして、不確かだけれど、時々は神様の愛を感じることが出来るということくらいだ。
「さよならエデン」という曲を書いた。最後にその曲の歌詞を紹介します。

「さよならエデン」
迷い逃げ込んだエデンの園 傷つかない物語
時間を止めて目を閉じれば 涙は遠ざかるけれど
さよならエデン
さよならエデン

退屈な永遠の都 魅惑の甘い物語
時間を破いて目を覚せば 悲しみも喜こびも流れ込む
さよならエデン
さよならエデン 夢に委ねて すべてを失うくらいなら
さよならエデン 出てゆくよ 夢追いかけて もがくこと選ぶよ
この世界で この世界で

暑い太陽に 冷たい風に 人生の不思議に 出会いと別れに
さらされて 涙を流すよ この世界で

さよならエデン 夢に委ねて すべてを失うくらいなら
さよならエデン 出てゆくよ 夢追いかけて もがくこと選ぶよ
さよならエデン 夢追いかけて もがくこと選ぶよ
この世界で この世界で

人間をとる漁師 ルカによる福音書 5章1節~11節 (聖書の話47)

今日の聖句は、イエス様が弟子を取られるシーンの中にある

ルカによる福音書の5章の1節から11節だ。まずは読んでみよう。

 

(1) イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。(2) イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。(3) そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。(4) 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。(5) シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。(6) そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。(7) そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。(8) これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。(9) とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。(10)シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」(11) そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

(ルカによる福音書 5章の1節~11節)

 


一晩中、漁をして、成果が得られず、疲れて網を洗い、後片付けをしていた漁師たちに、もう一度舟を出してくれと頼むイエス様。頼まれた漁師のシモンは、以前にしゅうとめの高い熱をイエスに治してもらった経験があり、無下にはイエス様を扱えない関係にあったと思われる
押しよせた群衆から少し距離を取り、イエス様はお話をされる。その間、シモンたちは舟の上で待たされている訳だ。後片付けをさっさと終えて休みたいと思っていたかもしれない。やっと話が終わり、帰れると思ったら、イエス様からもう一度網を下ろせと言われる。さすがにムッとしたのではないかなと思う。一晩中漁をした自分たち専門家に支持をするのかと。しぶしぶ従うシモン。
ところが予想は大きく裏切られて、網が破れるほどの魚がとれてしまう。シモンはイエス様に「主よ、わたしから離れてください、わたしは罪深い者なのです」と足元にひれ伏しながら伝える。
その時に、イエス様が言われた言葉が「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」だ。
シモンとヤコブとヨハネ、3人の漁師が、福音書の別の記事をみるとアンデレというシモンの兄弟を入れて4人が、この時イエスの弟子になっている。すべてを捨ててついていくのだ。舟や網、つまり仕事も、家族も捨ててだ。

この聖句を読みながら、僕にとってはどんな状況なのかを考えてみた。僕はミュージシャンなので、ライブハウスに出演するために訪れた東京での本番前のリハーサルのようだと思った。だいたい、ミュージシャンは自信家だし、自分の音楽が一番だとどこかで思っている。何バンドか出演する当日のリハーサル。初めて顔を合わせるほかのミュージシャン。なんだか偉そうに思えるミュージシャンが声をかけてくる、例えば「あの曲のあそこのコードはこっちの方がいいね」といった感じだ。そこそこ、名前は売れてきているらしいけど、なんだか偉そうで、ちょっと嫌だな。そんな感じ。
ところが、演奏がはじまると、もうとんでもなくかっこいい。圧倒的なライブ。自分ではまだ実現出来ていけれど、めちゃめちゃ自分がやりたい、目指していた音楽が目の前で実現している、そんな感じだ。
「うわー、なめていた、すいません、恥ずかしいですわ、ごめんなさい」そんな気持ちにさせられ、ライブ後あやまりに行ったら、「うちのバンドで一緒にやろう、東京に出てこいや」と言われるような感じ。「ホンマですか!!」嬉しくて、すぐに決断してしまう感じ。

イエス様は漁師に漁で圧倒的な力を見せる。彼らにとって、一番信頼できる方法で、彼らの心をつかんでいく。「人間をとる漁師」それもまた、彼らのための言葉だ。実際に、シモンは通称をペテロとし、イエスの一番弟子として生涯を過ごす。彼が伝えたイエス様の教えは世界に広まり、多くの人々の心を捕まえることになる。
この時のシモンたちには、その先の未来のことは分からない。ただ、「ついて行きたい!」という気持ち、「一緒に行こう」と言ってもらえた喜びだけがあったのではないかなと思う。
しかし、ついていかなかった漁師たちもいる。もし、シモンたちが自分たちの仕事に心から満足していたら、イエス様の誘いを喜ばなかったかもしれない。「イエス様、人間ではなく一緒に魚を取ってください」とお願いしたかもしれないのだ。
つまり、彼らは、自分たちの人生をどう生きていくかについて、ある渇きを持っていたのではないかなと思う。「今のままの人生では満足できない。何かが足りない。この人と一緒に歩めるなら今と違う望んでいる人生が送れるのではないか。」そういう予感の中で彼らはイエス様の言葉を聞いたのではないかと思う。
信仰を自分の力で手に入れることはなかなか出来ない。神様に見つけてもらい、拾ってもらうことで初めて信じられるという不思議が起こるのかもしれない。
「本当に意味のある人生を送りたい」そういう思いをイエス様は見つけてくださるのではないかと思うのだ。そして、本当に私たちの側に立って、一番わかりやすい方法で声をかけてくださるのではないかと思う。

そんなことを思いながら、いつものごとくクリスチャンではない僕の同僚たちにこの話を聞いてもらった。「なんて、イエスはひどい奴だ、人の家庭をめちゃくちゃにして」「そんな簡単について行っていいのか」と言う否定的な意見が多数出た。そうなのだ。やはり聖書は、あるいは僕は「イエス様は間違わない、正しいことを言っている」と言う前提で話を読み、話を理解しているのだ。聖書の物語を理解するために、人間同士の関係に落とし込んで読むとき、私たちは、神様と人間との関係と人間同士の関係に違いがないように感じてしまう。おそらく、その読み方では、聖書は何一つわからないだろう。人間について行くなら間違いが起こるかもしれない。例えば、さっきの空想の物語の続きで、誘われたバンドで東京に出た僕は、ドラッグ漬けになってダメになるかもしれない。

神様が存在して、その神様が人の姿をしてあらわれたのがイエス様なのだと信じる時、信じられた時、信じさせてもらえた時、直接声を掛けてもらったことの凄さや、素晴らしさ、弟子となった漁師たちの決断が理解できるのかもしれない。ペテロは、「主よ、わたしから離れてください」と思わず叫ぶ。この人はただの人間ではないというペテロの直感が感じられる。ペテロがイエス様を呼ぶ呼び方が「先生」から「主」に変わっていることに気がつく。「この人は主だ!」という発見と畏敬の中で、この物語は起こっているのだ。
2000年以上、この出来事は世界で繰り返されている。今日もまた、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」というイエス様の声を聞き、従う人がいるのだと思うのだ。
イエス様を通して神様と出会い、自分の人生が大きく舵を切る瞬間、自分の人生を賭けてみたいと心から思えるそういう神様からの呼びかけと出会いの瞬間。その狂気とも取れる瞬間と決断を、僕は神様を信じるクリスチャンとして改めて素敵だなと思った。