小さな祈り マタイによる福音書 6章34節(小さな祈り)(聖書の話31)

今回は、日々の生活の中でよく思い出す聖句を選んだ。

「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

(マタイによる福音書 6章34節)

好きな聖句だ。楽観的とはまた違う希望を感じる。一日の終わり、明日の事を心配しそうになるときに、「明日自らが思い悩む」という言葉に、なぜか励まされる。「未来が、自分の味方をしてくれる、一緒に思い悩んでくれる」そう感じるからかもしれない。それはつまり、未来を司る神様が、一緒にいて下さるという予感からくる希望だ。

僕は、比較的むちゃな締め切りを抱えてしまうことが多い仕事をしているのだが、「今日必ずやるべきこと」だけを、一生懸命やるようにしている。もちろん、計画することは大切だし、毎日、精一杯生きる事は前提だが、時々、まだ見ぬ未来におびえて、必要以上に心配をして、ドキドキしたり眠れなくなったりする。精一杯その日を生きたのに、そこには確かに成果は上がっているのに、その一日が終わるときに、感謝を忘れてしまうくらい不安に心を奪われてしまったりするのだ。

このブログでの「聖書の話」シリーズの第1回は、主の祈りを取り上げた。祈る方法と主の祈りの内容についてのお話だった。
「神様」と最初に神様に呼びかけ、祈る。そして、自分の祈りの言葉の最後に「本当に」という意味の「アーメン」という言葉を加える。そうすると、それは神への祈りとなり、どんな小さなことでも、どんなに下手な言葉でも、神は耳を傾けて下さるという祈る方法の話。あの回で、「主の祈り」は、本来、毎朝祈られるべき祈りだと書いた。「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と生活に必要なものを毎朝一日分神様にお願いする。毎朝祈る事によって、生涯、神に守られる人生が約束されているということを学んだ。

私たちは、毎朝、今日一日を守り、豊かにしてくださいと祈る方法を与えられている。そのことを思う時、今回の聖句は、一日の終わりに私たちが何を思い、どのように祈ればいいかを教えてくれているように思う。

「小さな祈り」という曲を30代の初めのころに書いた。一日の終わりの曲だ。その歌詞を今回は紹介しようと思う。

小さな祈り

おやすみ 一日の疲れを癒す眠りにつこう
おやすみ 喜びもそして悲しみもとめどないけど

深い眠り与えられますようにと求めて
悪い夢を見ないようにと祈ろう

おやすみ 一日の疲れを癒す眠りにつこう
おやすみ 毎日はとても短く早すぎるけど

明日もまた良い日でありますようにと求めて
今日も守られて感謝しますと祈ろう

おやすみなさいと小さく祈ろう

自分を愛するように ルカによる福音書 10章25節~28節(アイ・ラブ・ユーでユー・ラブ・ミーでアイ・ラブ・ミー)(聖書の話32)

すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」

(ルカによる福音書 10章25節~28節)

イエス様と律法の専門家の会話だ。二人の問答は「永遠の命を受け継ぐためにはどうしたらよいか」がテーマだ。
「永遠の命」とは何かという問いは非常に難しいのだが、一番いい形の命、目指すべき命のあり方くらいに考えてもらえばいいかもしれない。そして、その答えは「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」だと聖句は告げている。この言葉は旧約聖書からの引用。神様からの教えが書かれた当時の聖書の中から、申命記6章5節とレビ記19章18節を抜き出し、律法の専門家が的確に即答しているのだ。イエス様は「正しい答えだ」と言う。当時の律法の中心にあった十戒を受け身的に守るのではなく、「愛する」という行為で積極的に生活する中で、自然に十戒を守るという視点の転換、律法主義からの脱却が感じられる問答だ。

さて、この答えには三つの愛する対象が出てくる。神、隣人、そして、自分だ。
神様に愛されていることを信じて、神様に感謝し、神様を愛する。そして自分を愛するように隣人を愛する。

最近、僕は、この聖句が当たり前だと思っていることが、実は当たり前ではなくなってきているという現実があるのではないかと思うようになった。「自分を愛するように」という問題だ。現代は、なかなか自分を愛せないという人が増えて来ているのではないかと思うのだ。
人は愛するということと愛されるということを、時にごちゃ混ぜに考えてしまう、という話を、このブログでも何回か書いているが、この二つは全然違うことだ。愛されたいと思っている気持ちがどんなに強くても、愛されているという確信がなければ、愛する力にはなかなか繋がらなかったりする。
自分が愛さていることを信じられれば怖がらずに愛せるのに、一度愛されていることに疑いを持ってしまうと、なかなか愛することが出来ない。アイ・ラブ・ユーと伝えることに勇気が必要になってしまうのだ。自信が持てなくて、愛せなくなり、愛せないから愛されなくなる。悪循環の中で、自分を好きだと胸を張って言うこと、自分を肯定することが出来なくなって行く。

僕は友人から「原田は自分大好きやなあ、アイ・ラブ・ミーやな」とよく笑われる。本当に恵まれて愛されてきたからだと思う。最初は恥ずかしかったのだが、アイ・ラブ・ミーであることは現代においてはメッセージかもしれないと思うようになった。
一人きりでアイ・ラブ・ミーになれるほど、人は強くない。誰かからのユー・ラブ・ミーを信じられたときにアイ・ラブ・ミーということは生まれてくる。そしてそのためにはやっぱりアイ・ラブ・ユーを伝えななければならない。そんなことを考えていたとき、一緒に音楽をやっているメンバーから、「それこそ曲にすべきテーマやで」と言われた。

今回は「アイ・ラブ・ユーでユー・ラブ・ミーでアイ・ラブ・ミー」という曲の歌詞を紹介しようと思う。こっぱずかしい内容だが、歌っていうのは、不思議で、メロディーに助けられると、歌うことによって恥ずかしさが消えて、言葉が不思議と心に入ってきたりする。
お互いを指差しながら、この曲に合わせてお客さんが「アイ・ラブ・ユー♪」と歌ってくれる時、人って、本当は愛する事がこんなに好きなんだなと思うことがある。みんな本当に幸せそうな顔なのだ。ステージからのその景色はすごく素敵だ。ほんの少しの事で、悪循環は終わりを告げる。自分を愛するように隣人を愛せるようになれますように。

「アイ・ラブ・ユーでユー・ラブ・ミーでアイ・ラブ・ミー」

アイ・ラブ・ミーで行こうよいつも アイ・ラブ・ユー君へと贈る
アイ・ラブ・ミー愛する心は ユー・ラブ・ミーに支えられてる

生まれてきた事の意味や 生きていく事の意味 そんなこと分からないけど
ありがとうは嬉しくて 君のことが大好きで 戦争なんか大嫌い それで大丈夫

アイ・ラブ・ミー寂しい夜にも アイ・ラブ・ユー世界へ贈る
アイ・ラブ・ミー愛する心で ユー・ラブ・ミーを喜んでいる

僕らを創った何かはあるか 終わりの向こうは何か  その全て分からなくても
優しくなれたら幸せで 役に立つの大好きで  傷つける嘘大嫌い それで大丈夫

アイ・ラブ・ミーで行こうよいつも アイ・ラブ・ユー君へと贈る
アイ・ラブ・ミー愛する心は ユー・ラブ・ミーに支えられてる
アイ・ラブ・ミー寂しい夜にも アイ・ラブ・ユー世界へ贈る
アイ・ラブ・ミー愛する心で ユー・ラブ・ミーを喜んでいる

アイ・ラブ・ミー

アイ・ラブ・ユー ユー・ラブ・ミー アイ・ラブ・ミー

希望のある苦難 ローマの信徒への手紙 5章3節~4節(聖書の話33)

そればかりでなく苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。

(ローマの信徒への手紙 5章3節~4節)

この聖句を書いているのはパウロという人だ。イエス様の直接の弟子ではなく、むしろイエス様の死後、弟子たちを迫害する側にいたユダヤ教徒だったパウロは、神秘体験の後、回心し、キリスト教徒として多くの手紙を聖書の中に残した人物だ。
パウロの文章は、教義的で、厳しいイメージがあり、難しく、堅苦しいという印象を僕は持っていたのだが、今回の聖句は受け入れやすく、魅力を感じる。ポジティブで、人生に役に立ちそうなにおいがしているからかもしれない。クリスチャンで無くとも納得出来る、普遍的な格言のようにも思える。

キリスト教とは何かということについて、書き記されたこの手紙の中で、今回の聖句は信仰生活の特徴について語っている箇所だ。その流れの中で神学的に語句の意味を探ってみた。
「苦難」は信仰の故にうける迫害、犠牲、痛苦。キリスト者に臨む特殊な艱難。
「忍耐」は信仰的に動揺しないこと。屈せず神の道を行う積極的行為。
「練達」はキリスト教徒がその信仰を試されることで得る信仰的確信。
「希望」は信仰によって義とされた者が終わりの日の輝かしい完成に連なるという希望。

イエス様を信じることで迫害されても屈せずにイエス様に従っていけば、どんどん救われている確信が強くなり、天国があること、天国へと導かれている事を喜べるようになるのだ、という感じだろうか。

語句の意味を理解すると、今回の聖句がきわめてキリスト教的な信仰者の生活へ向けられた言葉であることが分かって来た。イエス様の十字架での死と復活が自分の罪の身代わりだったことを信じ、その復活に置いて神様に救われ、自分がただしい者に変えられたことを信じる、「キリストによる信仰による義」をまず心から受け入れ、喜び、理解する、その先での信仰生活の話だ。

随分難しい話になってきた。しかし、パウロという人物をイメージしてこの言葉を読む時に、救われたという癒しから、信仰生活の実現の厳しさへと深まっていく日々に叫び声をあげている等身大のパウロの姿が見え隠れしていることに気付いた。キリスト者の苦難とは普通なら感じなくともよい苦難であり、その先に練達と希望があることをパウロは強く認識しており、それが信仰者の全てに約束されていることを伝えようとしているのだ。やっぱり、教義的で、厳しいイメージがあり、難しく、堅苦しいのだが、必死に自分に言い聞かせながら手紙を書いているパウロを思い描いて、パウロに出会えたような気分になった。

パウロが「ローマの信徒への手紙」を書いたのは、おそらく30代に起こった回心から20年後くらい、三回目の伝道旅行の最中だったと思われる。つまり、だいたい50代の半ばくらいだったと推測される。今の僕とほぼ同年代。少し先輩だ。

この箇所は毎日の祈りであり、約束だ。自分を含めて、信仰者を励まし、導こうとするパウロは、決してこの言葉が実現していない信仰者を攻めているのではないだろう。しかし、同時に厳しい積極性を要求していることも事実だ。それは行為による確信を促すパウロの愛とも言える。

さて、私たちの人生には苦難と言えるようなものがあるだろうか。それは、人それぞれかもしれない。苦難だと感じている同じ出来事も別の人にとっては苦難ではないかもしれない。それは本当に個人差がある。しかし、同時に苦難のない人生もまた想像できない。おそらく私たちは人生の中で苦難に出会うことになるだろう。
その苦難には二種類あるのではないだろうか。「希望のある苦難」と「希望のない苦難」。

最後に残った語句として「誇り」について調べていて、ドイツのエルンスト・ケーゼマンの「人間は誇りにおいて自分が誰に属しているかを表明する」という解説を見つけた。
苦難は出来れば願い下げたいところだが、信仰者として救われて来た僕は、同時にこの「希望のある苦難」を、喜びを持って誇りとすることをパウロに勧められているのだと感じた。

思い悩むな マタイによる福音書 6章31~33節(聖書の話34)

「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」

(マタイによる福音書  6章31-33節)

今回の聖句は、神様が必ず助けて下さるという、その確信、その信頼を自分のものとする方法について、「まず、神の国と神の義を求めなさい」と語る。神の国で喜ばれる生き方を探し、神が正しいと示してくれる「神の義」を求めてみなさいと言うのだ。
それでは、 神の国と神の義はどうやって求めればいいのか。信仰者でない人にはがっかりな答えかもしれないが、それは、教会に行く事、聖書を読む事、お祈りをする事に始まる。その生活の中で進むべき道が示されていく。神様からのご利益で判断し、信じるのではなく、何も答えが見えていないときに、それでも、神様にすべてを委ねれば、あとから全てが与えられると聖句は語る。

先日、クリスチャンでない友人と話をしていて、「どうも、ハラダの話は、神様が大前提になっていて、ついていけない」と言われた。人生の不条理について話をしていたのだが、僕の話には、どこか、楽観的な所があると彼は言うのだ。彼は、人生で起こる理不尽を見渡すときに、やっぱり「神様がいるとしたら、いったい何をしているのだ」という思いを抱いてしまうらしい。「大丈夫、神様がなんとかしてくれる」と言う事さえ憚られるような現実はたくさんあるという指摘だった。
確かにその通りだ。表面的にこの世を支配しているのは神様ではないのだと思う。お金に対する人間の欲は愛よりも強く、権力を求めて理不尽に世界を操作しようとする者が成功していくようにも見える。
しかし、その奥に、やっぱり神様の支配、真実の勝利があるのではないかと僕は思う。長い時間をかけて結局は悪が裁かれることや、大金持ちなのに幸せについて全く知らない人がいることを私たちは知っている。貧乏だけど正しく生きた人が何一つ足りないものがない幸せな人生だったと語る場面を目にする事もある。

楽観的だという指摘を否定するつもりはない。と同時に、今回の聖句が約束することを信じる力は、究極のところでは僕にはないかもしれないとも思う。今までの人生はただラッキーだっただけで、本当に大変なことが起こったら、信仰どころではなくなってしまうかもしれない。あー、やっぱり神はいない、人生は絶望だと嘆くかもしれない。

しかし、この言葉を語ったイエス様は実存的に今回の聖句が真実だということを示してくれている。私たちは、教会に行き、聖書を読み、お祈りをする事で、イエス様がどのような生涯を過ごしたかを知ることが出来る。絶望するには十分な状況をイエス様は生き抜いて行く。経済的な不安はもちろんのこと、理不尽きわまりない出来事がイエス様を次々に襲っても、イエス様は進む道を変えない。祈り、神様の声に従い生涯を全うする。
そして、その生涯は、2000年経った今も学ばれ、イエス様が伝えたこと、伝えたかったことは今日も世界で語られている。イエス様は決して楽観的で世間知らずの詩人ではなかった。今回の聖句の裏側に、決意と勇気が隠れている。「きっと神様は自分の人生を無駄にはなさらない」という信仰が隠れている。まだ見ぬ未来への不安を振り切るイエス様自身の決意表明が隠れている。

その決意と結果こそがご利益を大きく上回る私たちへの恵みなのだと気付かされる。信仰者であろうとなかろうと、イエス様の歩まれた道を辿る事が私たちにはゆるされている。イエス様の生涯はすでに起こった出来事だからだ。確かにそこに道があるという安心感。険しく厳しい道ではあるだろうが、不完全ながらも、その道を辿り、思い悩まない人生を歩んで行くことが全ての人に向けて開かれているのだと思った。

体のともし火は目 ルカによる福音書 11章33節~36節(KEY)(聖書の話35)

「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」

(ルカによる福音書 11章33~36節)

秋になると、職場の高校の学園祭があり、時々、演劇祭の審査員の依頼が舞い込む。丸一日かけて、3年生全クラスの演劇を審査員として観させてもらうことになる。大変だが、ものすごく刺激的でいろいろなことを感じる。
たまたま同じクラスになった面々が、全力で何かを作り上げていく学園祭。どのクラスにもそれぞれにドラマがある。爆笑をし、涙を流し、喧嘩をして、大もめにもめて。漏れ聞こえてくる大騒ぎの後、迎える本番。数ヶ月の間、真剣に取り組み、目指してきたその瞬間であるステージに立つ学生たちの姿を、いつも心から美しいと思う。それこそ、今日の聖句にあるように「澄んだ目で全身が明るい」と感じる。「一生懸命」に下心がなく、利害が無く、ただただ本気で取り組んでいるからかもしれない。学校という場所ならではの風景だとも思う。
本番までの数ヶ月の間に、多くの学生たちが人生を左右するような出会いや経験をする。偶然のように始まる友情や恋愛の中で、未来を語り、その語った未来の実現のために努力をする日々が始まったりする。
人生が進めば、もしかしたら、光を見失ってしまうような厳しい現実がまっているかもしれない。全身を輝かせてくれるような光を澄んだ目で見つけることは、歳を取る程、難しくなるようにも思う。

 

今回の聖句は、見失った時に、「あなたの中にある光が消えていないか」調べろと語る。それは、誰にでも出来る事だなあと思う。自分の中に暗い所がないか、正直に向き合う。そして、もし見つかったなら、その暗い部分を認める。誰にでも出来るが、実際にはしんどい作業だ。でも、そうすることで、目は再び澄み始め、光を見つけ、体の中にまた火をともしてくれるようになるということなのだろう。

そして、教会は澄んだ目で見つめられた時に、光を見出してもらえる場所であるべきなのだとも思う。燭台の上に置かれた時に恥ずかしくない教会であることが要求されているように思う。それは信仰者でいることにおいても同じだろう。厳しいことだ。

もちろん、学園祭での経験は、偶発的で奇跡的な一瞬の輝きかもしれない。まだ社会の複雑さのない純粋な世界での小さな成功体験かもれない。それでも、その輝きを放てる自分との出会いは、生涯の財産だと思う。その経験が、後に自分の暗い部分を認める勇気を与えてくれるからだ。

 

今の自分を変える鍵をいつも私たちは自分の中に持っているのだと思う。随分昔に書いた「KEY」という曲の歌詞を紹介する。

 

「KEY」

そう 遠い昔何も見えぬ頃同じ場所にいたね
そう 一人ずつ夢を語っては巣立つように消えた

時が来て飛び降りた 降りたって鍵を開けた
恐れなど何一つ無くて長い旅を始めた そうだろう

 

そう 時間の上で誰もが手探りで違う場所に生きる
ああ 誰かが寂しさに躓いて足を止めたようだ

 

遠い夢に追いつけず 苦しさに鍵をかける
閉じこめたその同じ鍵は開けるためのものだよ
時が来て飛び降りた 降りたって鍵を開けた
恐れなど何一つ無くて長い旅を始めた そうだろう

 

長い苦しみの末に 鍵をかけてちゃ駄目さ
光も手にせずに 鍵をかけてちゃ駄目さ

 

遠い夢に追いつけず 苦しさに鍵をかける
閉じこめたその同じ鍵は開けるためのものだよ
時が来て飛び降りた 降りたって鍵を開けた
恐れなど何一つ無くて長い旅を始めた そうだろう

 

手で触れて分かる事 ルカによる福音書 24章38節~39節(Baggage)(聖書の話36)

「そこで、イエスは言われた。『なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。』」

(ルカによる福音書 24章38節~39節)

 

今日の聖句は、なかなか難しいところだ。十字架にはりつけにされて死んだはずのイエス様が復活して弟子たちの前に現れたときの記述だからだ。今の科学では「そんなことはあり得ない」という聖書箇所だ。
「科学的か」とか「現実的か」とかそういう問題としてイエス様の復活を考えると、どうしても話は難しいところにいってしまうのだが、この聖書箇所を読んでいて、あるとき僕はある感情をいだいた。

 

この箇所での弟子たちの状況は、相当絶望的なものだっただろうと思われる。人生をかけて、イエス様に従う事をきめて、一緒に歩んで来たのに、そのイエス様が時の権力者によって、死刑を宣告されて死んでしまったという現実。自分たちにも身の危険が迫っている弟子たちは、それでも、ばらばらに逃げる事もせずに、部屋に鍵をかけて、また集まっていた。
この先の人生をどうすればいいのか、なぜ、イエス様は死んでしまったのか。答えのない自問自答の中にいたのではないだろうか。
そこへ、イエス様が肉体をもって現れる。しかも、「触ってみろ」という訳だ。

 

僕が抱いた感情は「よかったなあ、嬉しかったやろうなあ」だ。それは不思議な感情だった。復活を信じられたとか、分かったとかではなく、ただ素直に弟子たちの気持ちを感じた経験だった。

 

例えば、誰かと会い、話をしたとしよう。その人が実在したかどうかを疑う人はいないだろう。それは、信じるか信じないかではなく、そこにその人がいたことは出会った本人にとっては確かなことだからだ。それと同じくらいの確かさで、はっきりと、弟子たちはイエス様がそこにいる事を感じたのだと思うのだ。ただただ嬉しかったのではないかと思う。

 

そして、その物語は、2000年ものあいだ、くり返し、弟子たちと同じようにイエス様が復活したことを確信する人たちによって、語られ、聖書に記され、消えてしまうことなく、私たちのもとまで運ばれてきたのだと思う。
科学的な説明など必要のない確かさで復活したイエス様に出会い、喜びを感じる。イエス様の教えに従い、人生を歩む中で、イエス様の人生に出会っていくということが起こる。聖書を読み、教会に通い、自分の生き方を探し求める時、イエス様が十字架にはりつけにされ死んでしまうということに、弟子と同じように絶望するという事が起こる。そして、復活したイエス様に出会うということが起こって来たのだと思う。

 

「Baggage」という曲の歌詞を今回は紹介しようと思う。復活は論理的証明、科学的証明が可能な出来事ではないかもしれない。けれど、主体的告白としてなら、確かなことなのではないだろうか。イエス様の復活は、語り継ぎたくなる喜ばしい出来事なのだと思う。

 

「Baggage」

 

手で触れて分かること 抱きしめて感じあえることを 運んで行くんだ僕ら
不確かで危うくて 切なくてあたたかい心を 運んで行くんだ僕ら

 

小さな箱に閉じ込めたものを紐解いて見せるように

 

僕だけのストーリーを君に聞かせよう
君とだけのストーリーを

 

愛しさに守られること 見つめれば伝えあえることを 運んで行くんだ僕ら
慰めて励まして ぎりぎりで浮かんでる心を 運んで行くんだ僕ら

 

小さな箱に閉じ込めたものを紐解いて見せるように

 

僕だけのストーリーを君に聞かせよう
君とだけのストーリーを
僕だけのストーリーを君に聞かせよう
君とだけのストーリーを

 

雨の夜も光る道 コヘレトの言葉 12章1節~2節(雨の夜も光る道)(聖書の話37)

青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。
苦しみの日々が来ないうちに。
「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。
太陽が闇に変わらないうちに。
月や星の光がうせないうちに。
雨の後にまた雲が戻って来ないうちに。

(コヘレトの言葉 12章1節~2節)

 

空しさと向き合った王様コヘレト。そのコヘレトの言葉を綴った「コヘレトの言葉」。旧約聖書の中で、非常に興味深い箇所だ。解説を読むと「死に運命づけられた人間の生の意義について考えた、ある知恵者の書」とある。その最後の章に、青春の日々を過ごす若者へ向けて、コヘレトが言葉を紡いでる。
彼のメッセージは一点だ。「お前の創造主に心を留めよ」。若いときに自分を創った者を知る事が大切だとコヘレトは言う。

 

本来、青春時代は何にだって一生懸命だ。恋も友情も将来の夢への取り組みも。死の予感はまだ遠く、希望に溢れている。現実は甘くないという大人たちの言葉を、敗者の遠吠えのように感じたものだ。その感覚は健全なものだと僕は思う。そして、その時期にこそ、一生懸命生きる事の楽しさを感じるべきだと思う。夢中になれることの幸せを実感するべきだと思う。
青春と相対的なものはやがて過ぎて行く。そこには諦めがあり、絶望がある。虚しさが襲って来て、なぜあんなに楽しかったのか不思議に思ったりする。そして、絶対的なものが存在するかどうかという問題が、初めて自分の人生にとって大きな問題になるのだと思う。

 

僕が信仰を受け入れたのは、24歳の時だった。キリスト教を信じたからといって、生の意義に対する答えが明確に与えられる訳ではなかったが、その問いを誰に向けて行うのかを定められた言う意味においては、人生の大きなターニングポイントになったと思う。私たちが誰に、あるいは何に創られたかという問い。あるいは何のために創られたのかという問い。この種の問題に対する答えは実存の中で獲得して行くものだ。不確かながら、一生懸命生きることの先で、少しずつ確信されていくものだと僕は思う。
そうなのだ。青春が過ぎても、結局は一生懸命生きていかなければならない。そのためには、過ぎて行かない、相対的でない、絶対的な何かが必要なのだ。諦めや虚しさを越える希望が必要なのだ。コヘレトは「お前の創造主」こそがそれだと語る。

 

今回は「雨の夜も光る道」という曲の歌詞を紹介しようと思う。

「雨の夜も光る道」

その人がくれた愛は 確かに君を育てた
月明かりが闇夜に道を照らす

君は旅支度を調えて 振り返らずに旅立つだろう
星の示す行く先へと急いで

迷わずにその道を行く 不安や焦りよりも速く
その人が見守ることは 必要な時が来れば思い出せばいい

陽の光と希望に溢れて 喜びと楽しみをみつける
太陽は情熱に火を注ぐ

やがて雨の夜が訪れて 情熱の火は消えたとしても
その人がくれた愛を 分かち合う喜びを知るなら
雨の夜も光る道を見るだろう

迷わずにその道を行く 不安や焦りよりも速く
その人が見守ることは 必要な時が来れば思い出せばいい