この花の一つほどにも(聖書の話19)

しかし、言っておく。
栄華を極めたソロモンでさえ、
この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

マタイによる福音書 6章29節

今回の聖句に登場する「ソロモン」は、古代イスラエル(イスラエル王国)の3代目の王様です。ダビデの息子であり初めてエルサレム神殿を築いた人物。イスラエル王国が最も繁栄した時代の王と言えます。 一方、「この花」とは野の花のことです。 野に咲く小さな花の美しさに最高の繁栄の中にあったソロモン以上の美しさを認めるというのが今日の聖句です。

神様が私たちに与えている美しさについて、高校で17歳、18歳の学生たちを見ていると、毎日のように感じさせられることがあります。若さを伴って、一所懸命生きていること、そのまぶしさが教室に溢れています。ましてや、学園祭の時期など、そのステージの上に繰り広げられるドラマと学生の表情を本当に美しいと感じる瞬間がたくさんあります。 湧き上がる内面的な奇跡のような美しさに何度も感動したりします。

その美しさは、「若さ」や「容姿」に支えられているのでしょうか。

僕自身、もう少し若いときには、目鼻立ちが整っていること、見た目の美しさに、今よりもっと心を奪われがちだったように思います。リーダーシップを発揮し、中心で頑張る学生に目が行きがちだったかもしれません。けれど、年を重ねていくと、今まで気が付かなった美しさに目が行くようになりました。バラやユリではなく野に咲く小さな花にも気が付ける時が少し増えたように思うのです。
横着をせずにひたむきに学問に取り組む姿や、純粋に喜びを表現する素直な表情に「美しさ」を感じるのです。それは、「この人はきれいな心だな」と思う瞬間なのかもしれません。
一人一人の学生がそれぞれに輝く瞬間を持っているのは確かなことです。なかなか難しいことですが、その輝きを見出し、伸ばすことが恐らく教育者に求められていることなのだと思います。そして、学生だけでなく、年齢や性別を超えたすべての人の中に、実は「美しさ」を見つけることができるというのが、今日の聖句の語っているところでしょう。

わたしたちにもともと与えられている美しさとは何でしょう。

聖書を読むと「思い悩むな 大丈夫、神様が守ってくださる。」というメッセージの中で、今日の聖句は語られています。何を着ようか、何を食べようか、そんな心配で命を憂うなと聖書は語ります。生きているということを肯定することが、この聖句の根底にあるように思います。「あなたは、あなたのままで、すでに美しいものとして創られ、そして神様に愛されている。だから安心して一生懸命生きなさい」というメッセージを感じるのです。

美しさの一つは、「一生懸命生きる」という姿だと思います。自分に与えられている命の可能性を精一杯に使おうとする姿だと思います。だから、職人の背中に、おじいさんやおばあさんの表情やちょっとした所作に、私たちは「美しさ」を感じるのかもしれません。そして、もう一つは、「愛する」という行為ではないでしょうか。相手のことを考えて動いている人に、小さな思いやりの中に、人間の美しさを感じます。

わたしたちは、神様に愛する力を与えられて創られているのだと思います。すべての人を愛せるとか、完璧な愛とかではなく、小さな小さな力でしょう。それでも、愛する喜びを感じる心を与えられていると思うのです。
不完全であっても、一生懸命生きる、一生懸命愛そうとする、その時に神様が足りない部分を補ってくださる。その神様からの愛を疑わずに受け取るときに、野の花のような美しさが私たちにも与えられると言うことだ思います。そのことを信じて自分の精一杯で今日を生きられる人でありたいと思います。