「はればれ」とした気持ち(聖書の話17)

わたしは知った 人間にとって最も幸福なのは
喜び楽しんで一生を送ることだと
人だれもが飲み食いし その労苦によって満足するのは
神の賜物だと

コヘレトの言葉 3章12節~13節

今回の聖句は、旧約聖書の「コヘレトの言葉」から選んだ。コヘレトというのは、王様で、いつも「空しい」という気持ちと戦っていた人物だ。聖書では珍しいと感じるくらい人生を嘆いている。勉強しても、遊びまくっても、王様として世界を正しく見極めようとしても、治めようとしても、結局空しい。全てが「風を追うような事」だと彼は嘆く。コヘレトの言葉は、その冒頭から空しさと絶望に満ちた嘆きが続く。
しかし、この3章でついに、コヘレトは悟ったように、「分かった!自分は神のようにすべてを知り、分かり、治めたいと思って来たけれど、それは無理なのだ!!」と言い始める。そして、幸福について、「わたしは知った!」と叫ぶ。
「喜び楽しんで一生を送ること」。 人間の幸福について彼が辿り着いた結論は、あまりにも当たり前で、幼稚にさえ見える。しかし、全ては分からなくても、喜ぶこと、楽しむことが出来るという自分を受け入れること、一生懸命働けば、疲れてお腹がすき、食事を美味しいと感じ、深い眠りが与えられのは、神様による贈り物だという発見は、コヘレトの毎日を大きく変え、彼を空しさから救ったのだった。

この聖句を学んでいて、ずいぶん前に「はればれ」という言葉をテーマに歌詞を考えた時のことを思い出した。自分の心の中に「はればれとした気持ち」を探しに行って、大人になってから「はればれとした気持ち」をほとんど感じていないことに気が付いて愕然とした。
中学や高校のころは、目標を持ってスポーツに打ち込んだり、恋をして、その子のことをいつも考えて、一つの事がうまくいくと、世界が開けて、「すかっ」とした気持ちになれたのに。知らない事や分かっていない事が多くても、純粋に一生懸命に生きて行く中で感じたはればれとした気持ち。その気持ちもまた、神様の賜物、神様から贈られたものなのだと改めて気付かされた。
自分の力で人生を動かそうとやっきになって、無力を痛感して空しさを覚える。はればれとしない私たちの心には、「神のようになりたい」と望むことで空しさに捕まったコヘレトと同じ嘆きが見え隠れしている。

みんさんが今、はればれとした気持ちになかなかなれないとしたら、そこには自分の分を超えた思い上がりや、小さな幸せを喜べないかたくなな心が隠れているのかもしれない。
一生懸命過ごした一日の終わりに、そのがんばりを褒めてあげること、疲れて眠りに落ちる幸せをちゃんと噛み締められること、そんな心をもっていたいなと思う。はればれと今日を生きられますように。「はればれ」という曲の歌詞を紹介する。

「はればれ」

はればれとした気持ちで走る
はればれとした夜明けの道を
ライバルだったあいつの家 あの頃よく迎えに行った
グランドで息を切らして 競い合ったりした授業前

はればれとした未来を描く
はればれとした恋を実らせ
初めての告白は 忍び込んだ夜の校庭
時間を忘れて過ごして 夜更けに送って行って怒られた

迷いが生まれ曇りそうな毎日を今
あいつは元気でやってるか あの子は幸せになったか
はればれと今日を生きよう
はればれと明日も上を向いて僕ら

はればれとした歌を歌おう
はればれとした空を見上げて
メロディーに誘われて 言葉はいつも溢れた
何もないけれど嘘もなく 誰かに届くはずと信じられた

迷いが生まれ曇りそうな毎日を今
伝えるべき言葉を僕は 飲み込んでないか
はればれと今日を生きよう はればれと僕らは行こう
はればれと今を生きよう はればれと僕らはやろう
はればれと愛を歌おう はればれと明日も上を向いて僕ら