生誕劇の宿屋の主人 ルカによる福音書 2章6節~7節(聖書の話12)

「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」

ルカによる福音書2章6節~7節

今回は、自分にとって一番正直なクリスマスについてのお話を紹介しようと思う。クリスマスによく教会学校なんかで子供たちによって演じられる、イエス様が生まれる夜までの出来事を描いた「生誕劇」についてのお話だ。

生誕劇の第1シーンは天使がイエス様の母となるマリアのところに訪れるというシーンから始まる。マリアは自分の前に現れた天使から、自分が神の子どもを身ごもっていることを伝えられる。その不思議で神秘的な天使からの告知を、マリアは神様からの言葉として信じ、素直に受け入れる。この第1シーンの登場人物は天使とマリア。
第2シーンは、マリアの夫のヨセフの夢の中に天使が現れるシーン。ヨセフもまた、天使によってマリアが神の子どもを身ごもっていることを知らされる。ヨセフにとって、辛く厳しい知らせだったと思うのだが、ヨセフは神様からの言葉としてその知らせを受け入れる。マリアがまずは一人きりで天使からの知らせを受け止めたように、夫ヨセフも神に委ねられた自分の役割を一人きりで受け止めている。この第2シーンの登場人物は天使とヨセフだ。
第3シーンは、当時の皇帝アウグストゥスからの勅令によって、住民登録のために、ヨセフとマリアが、ナザレという街から自分たちが生まれたベツレヘムという街へやってくるところから始まる。二人がベツレヘムにたどり着いてみると、登録の為に故郷に帰ってきた人たちで街はごったがえしていて、泊まる場所が見つからない。今夜にもマリアが子どもを産みそうだというのに、どこにも部屋を見つけられない。何軒目かの宿屋で「馬小屋なら空いているよ」と宿屋の主人に言われるというシーンだ。この第3シーンでは混雑する街の人をバックにヨセフとマリアと宿屋の主人の3人が登場する。
第4シーン、時間は少しさかのぼる。星を通して様々なことを知ることが出来る、いわゆる占星術の学者たちが「ユダヤ人の王がお生まれになったのではありませんか」とその時代のユダヤ人の王であるヘロデのところへと訪ねて来るシーンだ。もちろん星が知らせている「ユダヤ人の王」はヘロデ王の子どもではない。小さなベツレヘムという街の馬小屋で生まれるイエス様を知らせているのだ。当ての外れた占星術の学者たちはヘロデ王のもとを去り、「ユダヤ人の王」を探す旅に再び出かける。そして、行く先を示す星に導かれて、生まれたばかりのイエス様のいる第3シーンで出てきた馬小屋へとたどり着くのだ。第4シーンの登場人物は占星術の学者たちとヘロデ王。占星術の学者たちを導く動く星の役も時々ある。
第5シーンは、イエス様が生まれる夜に野宿をしている羊飼いたちのシーン。自分たちを救ってくれる「救い主」を待ち望んでいる羊飼いたちのところに天使たちが現れる。そして、「救い主」が今夜誕生し、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ていることを知らせる。羊飼いたちは喜び勇んで「救い主」を探しに出かける。第5シーンの登場人物は、羊飼いたちと天使たち。
最後のシーンはあの馬小屋の中だ。駆けつけた羊飼い、たどり着いた学者たち、彼らに囲まれてヨセフとマリア、そして飼い葉桶の中に幼子イエス様。そのすべてを見守る天使たち。救い主の誕生を祝う美しいシーンで生誕劇は幕を閉じる。

順番や登場人物の人数やシーンの数には差があるが、だいたいこのような物語として、生誕劇はクリスマスになると世界中の教会で演じられている。

僕の家はプロテスタントの教会で、高校生になるくらいまで、毎年クリスマスになると、教会学校で生誕劇をやらされた。当時牧師だった父、教会学校の先生である母、そして姉と妹。家族をあげて12月はクリスマス祝会の準備だ。僕が子どものころは自宅を開放して礼拝を行っていたような小さな単立教会だったから、毎年何かの役がまわってきた。結果的にマリア以外のほとんどの役をやることになった。

ある年、クリスマスが近づいてきた頃に、妹から興味深い提案があった。
「生誕劇でさあ、全員が自分のやりたい役を演じるのって無理かなあ」というものだった。「私は羊飼いがやりたいねん」と妹が言う。理由を聞くと「だって、ひたすらに待ってて、天使が知らせると疑いもせずに喜び勇んで駆けつけるんやで、その単純な感じが好きやし、そうありたいと思うんやんか」と言うのだ。妹が続ける。「お父さんは占星術の学者やと思うんやんかな、疑って、疑って、自分の力で真実にたどり着きたい、みたいなところあるやん」牧師も家族にかかるとめった切りである。「お母さんは多分天使やで、知らない間に大切なことを人に伝えてな、お知らせ運ぶ役がぴったりやろ」納得のいく解説である。小さな教会なので、この面白い話はすぐに広まった。マリアをやりたいと言う人、マリアを支えるヨセフをやりたいと言う人も現れた。
しかし、この計画は実現しなかった。教会に通う人たちが集まって、心からやりたい役を告白すれば「ヘロデ王」をやる人が見つかるわけがないのだ。
さて、僕はと言えば、「お兄ちゃんは何がやりたい」と言われて、随分困ってしまった。羊飼いほど単純じゃない、占星術の学者ほど熱心じゃない、天使なんてあり得ない、さすがにヘロデはやりたくない。「ほかにないの」と聞くと、「うーん、あとは宿屋の主人かなあ」と妹が言う。びっくりするくらいしっくりきたのを思い出す。「あ、俺、宿屋の主人がいいわ、めっちゃやりたい」妹は爆笑した後「うん、向いてるかもな」と言った。

ヨセフとマリアに馬小屋を貸した宿屋の主人。ゆっくりと聖書を読み返してみると、そんな宿屋の主人も「馬小屋なら空いているよ」というセリフも聖書の中には存在しないことが分かる。もしかしたら、ヨセフとマリアは勝手に馬小屋を使ったのかも知れない。聖書には「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」とあるだけだ。それでも、僕はやっぱり宿屋の主人を演じたいなと思うのだ。
主人は世の中で戦っている。住民登録というめったにない商売のチャンスでてんやわんやの大忙しの中にいる。おそらく、自分が貸した馬小屋で生まれた赤ちゃんの誕生が2000年後も世界中で祝われるなんて、これっぽっちも思っていないだろう。そして、死ぬまで、自分が何をしたか知らないままだったと思うのだ。僕は彼が罪を犯したとは思わなかった。神様には随分失礼な話だが、ぎりぎりのところで、偶然にもヨセフとマリアをそして神の一人子の誕生を手伝った存在だったと感じたのだ。ことの真相を分かっていれば、自分が野宿をしてでも自分の部屋に泊まってもらうべきだった。大金で宿泊客を追い出して、スウィートルームを用意するべきだった。でも、彼がしたことは、最低の最低の最低限の親切だったと思うのだ。きっと清潔ではない、匂いだってする、眠ることも難しいような馬小屋を用意しただけだった。それでも、屋根があることでヨセフもマリアも少しは助かっただろうと思うのだ。
宿屋の主人は、この世の中と聖なる世界の境界線に立っている。自分の役割も分からずに、ぎりぎりのところでこの世に聖なるものを引き寄せる小さな仕事に携わった存在だ。
キリスト教学の講師をしながらシンガーソングライターとして音楽の仕事をしている僕は、この世の中が大好きで、この世の中での成功を夢見て一生懸命仕事をして、時には不信仰だとクリスチャンに怒られながら生活している。そんな僕にとって、宿屋の主人は魅力的な役だった訳だ。

今、このブログを読んで下さっている皆さんの中には、羊飼いのような人も、占星術の学者のような人も、天使のような人もおられるだろう。もしかしたら、マリアやヨセフのように特別なことを神から任されている人もおられるかもしれない。でも、多くの人は、宿屋の主人のように、自分の行いの意味さえ分からないで日々を過ごしているのではないかと思うのだ。僕らの日々の行いが、意味は分からなくとも、何か神様の役に立っているなら素敵だなと思いながら、クリスマスに、主であるイエス様の誕生を心からお祝いする想いを、皆さんと共有できるなら嬉しいなと思う。
メリークリスマス!よいクリスマスをお過ごし下さい!!