罪は赦される(聖書の話9)

「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち『あなた方に平和があるように』と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』」

(ヨハネによる福音書 20章19節~23節)

今回の聖句は金曜日に十字架にかかって死んだイエス様が、日曜日に弟子たちの前に現れた時の記述だ。今や死刑囚の弟子となったイエス様の弟子たちには、社会からの迫害の危機が迫っていた。それでも、弟子であることを諦めて逃げてしまうのではなく、恐怖を感じながらも家の戸に鍵をかけて、彼らは集まっていたということになる。

「あなたがたに平和があるように」

その言葉は、彼らの心の不安への言葉だ。「大丈夫、安心しなさい、私だ」とイエス様は言う。
さて、「死んだ人間の復活」という視点でこの物語を見ると「眉唾物だな」などと感じてしまう。「あり得ない出来事だ、バカバカしい」となってしまう。しかし、弟子の気持ちになって読み取ると、弟子が「喜んだ」という気持ちを、素直に受け入れることができることに、ある時僕は気がついた。そりゃあ嬉しかっただろうと思うのだ。だって、会いたくても会えないと思っていた、死んだはずのイエス様が目の前に現れたのだから。イエス様が肉体を伴ってそこに現れたかどうかを知る事は出来ない。しかし、少なくとも弟子たちはイエス様をそこに感じ、イエス様の声を聞いたのだろう。そして、再会以上に嬉しい言葉がイエス様から弟子たちに発せられる。

「わたしもあながたを遣わす」

弟子達に、イエス様が、この先の人生の指針を与える瞬間である。

イエス様は彼らに息を吹きかけたと書かれている。高校の授業で、この場所の解説をするときに、学生たちが、どのようにこの言葉を読んでいるか、素直にそのシーンを演じてもらったりする。フーと優しく息を吹きかける学生もいれば、「ささやくような小さい声で言ったということでは?」という学生もいる。役者になったと思って、どう演じるかを考えるとなかなか難しい記述だ。
僕は、「息」と訳されているギリシャ語が「風」あるいは「聖霊」とも訳せる言葉であることから、「彼らに息を吹きかけた」というイエス様の動きではなく、弟子の側に、息を吹きかけられたような気持ち、もっと言うと、鳥肌が立つような、ビビビッと来るような湧き上がる力が吹き込まれたような感覚があったのではないかと解釈している。これからの人生に意味を与えてもらった!という喜びからくる感覚だ。弟子たちは失意と絶望の中にいた。未来を見失って、それでも諦められずに集まっていいた。そこに、イエス様がやって来て、「落ち着け、安心しろ、お前たちには仕事がある」というのだから、やっぱり嬉しかったと思う。

彼らへの指示はこのようなものだった。

「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

この言葉は、二つの読み方ができるように思う。一つは、「はい、あなたの罪は赦されません」というように、弟子たちに、彼らがこれから出会う人々の罪を赦すか赦さないかを決定する権限を与えるという読み方。意地悪な言い方をすると悪い人間をさばいて、天国に入れない、あるいは地獄へ落とす権限を弟子に与えるという読み方だ。もう一つは「おまえたちは、これから、人々の罪を赦してまわるのだ。もしさぼって、罪を赦す事を怠ると、その人たちは天国に行けないようになってしまう!人生をかけて、赦してまわりなさい、救ってまわりなさい」という読み方。随分印象が変わる。そして、僕は、イエス様が言わんとしたことは後者の読み方に近いのではないかと考える。

僕は度々、自分のライブのお知らせを友人たちに送るのだが、先日、そのお知らせをFACEBOOKで友達になっている人に送るという作業をした。1000人以上いるFACEBOOK上での友達の中から、関西にいる人たちを選んで一人一人にメールを送った。最初は適当に送ろうと思っていたのだが、「この人にも送らないと、あ、この人にも…」というように、だんだん増えていって、結局600人くらいになったと思う。6時間くらいやっていたのではないだろうか。「お知らせするべき人をこぼしてはいけない!」と思うと、どんどん人数が増えていくのだ。僕が知らせなければ、その人が知らないまま僕のライブは終わっていってしまうのだ。…まあ、僕のライブは終わってしまっても特に問題はないのだが。

そういう一生懸命さで、罪を赦してまわりなさい、とイエス様は弟子たちに伝えたのだと思うのだ。
「罪を赦す」それは、イエス様が生涯をかけて行ったことだ。イエス様は、人々に嫌われた罪深い人たちを孤独から救い上げ、愛して、そして、その罪を赦して回った。
どうやって。
死刑にも相当する彼らの罪をどうやって赦したのか。
イエス様がしたことはたった一つだ。イエス様の言葉を信じる人たちに「あなたの罪は赦された、あなたの信仰があなたを救ったのだ」と伝えただけだった。
なぜその言葉をイエス様は言うことができたか。それは、彼が、無実の罪で十字架につく覚悟があったからだと思う。「あなたはもう一度やりなおせる。死刑に相当するあなたの罪の償いは私が引き受ける」とイエス様はその命によって罪の赦しを示す覚悟をしていたのだ。
そして、事は起こった。イエス様は本当に無実の罪で十字架についた。
弟子たちはその一部始終を分からないなりに見て来た人たちだった。今、イエス様に言われて、すべてのお膳立てが整っていることに彼らは気がついた事だろう。「あなたたちは、私が無実であることを知っている。そして、十字架を見た。その十字架は全ての人の罪の身代わりとしての十字架だった。全ての人の罪は、この後、私の十字架によって赦される。そのことを伝えて回る事、それが、これからのあなたたちの人生だ」という訳だ。
罪を赦される事、それは人生を取り戻し、希望の中に生きる自分を取り戻すということ。それこそが、キリスト教が私たちに伝えている一番シンプルなメッセージだと僕は思う。