「だから、あなたが祈るときには、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」
先日「一人でいる日」という文章を読んだ。ボンヘッファーという神学者の「共に生きる生活」という小さな書物の中の文章だ。「神と一人で向き合うことなしに、教会で信仰者同士が交わることは難しい」また「本当に人との交わりを望むなら、一人でいることができる人になる必要がある」というような内容だった。はっとさせられる思いがした。
私たちの時代は、なかなか一人でいることを許してくれない時代だ。Smart phoneはどこまでも「繋がる」ことを要求してくる。LineやMail、TwitterやFacebookでのやり取りは、私たちを孤独から救ってくれるようにも思える。でも、冷静になって考えると、本当は何も繋がっていないことを誤魔化してくれているだけのようにも思えてくるのだ。高校生を見ていても、学園祭の前などは、慌ただしく過ぎる毎日の中、つながり続けることを余儀なくされ、一人になりたくても、一人になれない、そんなストレスを気が付かないうちに抱えてしまっている人が案外いるのかもな、と勝手に思ったりする。大きなお世話だが、「しんどいこともあるだろうな」と思ったり。そして、それは自分自身にも言えることだったりするのだ。
今日の聖句は、祈るときには一人きりになり、祈っている姿を人に見せないようにしなさいと語っている。一人きりになれたとき、神様が見つけてくれていることに気が付くだろうと語っている。
沈黙の先に音楽が聴こえてくるように、一人になった先に繋がりは見えてくるのかもしれない。そんなことを思いながら、少し前に「君が一緒にいてくれる日」という曲を書いた。実は、どんな場所にいようとも、目を閉じればそれぞれが一人になることができる。ひと時、一人になって神と向き合う時間を作ることはできる。寂しさをごまかすのではなく、受け止めることの大切さを思う。
今回は「君が一緒にいてくれる日」という曲の詩を紹介しようと思う。
「君が一緒にいてくれる日」
今日は一人でいる日だ メールも電話も がまん がまん
こんな日があるから 君が一緒にいてくれる日を喜べる
逃げ出さずじっと受け止める一人でいる日
カーラジオ流れる曲が沈黙と孤独和らげる
神様に愚痴をこぼして 打ち明けるように呟く高速
うまくいかない昼の出来事 思い巡らし踏むアクセル
今日は一人でいる日だ メールも電話も がまん がまん
こんな日があるから 君が一緒にいてくれる日を喜べる
逃げ出さずじっと受け止める一人でいる日
透き通る夜 雨上がり 街の灯りと流れる雲
小皿みたいに浮かぶ月 空に向かって伸びてる高速
落ち込む気分 冷たい風に乗せて飛ばして踏むアクセル
今日は一人でいる日だ メールも電話も がまん がまん
こんな日があるから 君が一緒にいてくれる日を喜べる
逃げ出さずじっと受け止める一人でいる日
君をそばに感じている一人でいる日