「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」
この聖書箇所で説教を予定していた前日、友達がやっている喫茶店でお話の準備をしていました。女性の店主で美味しいコーヒーを入れてくれるので、よく仕事の合間を縫って立ち寄るの喫茶店です。その友達に、この聖句の感想を聞いてました。ちょうどカウンターに僕一人という状態だったのです。聖句を読み上げると、
「今時?この時代に?命をすてる?どんなシチュエーションですか?戦争ですか?あ!比喩?例え?」と矢継ぎ早に質問が返ってきました。
確かに、「友のために自分の命を捨てる」なんていう状況にこの現代の日本で遭遇するとは思えないという彼女の感想は、至極当然のような気もします。聖書に慣れ親しんでしまって、僕の方は気がつかなくなっている。その言葉の現代に対するギャップ、違和感を感じる力がいつの間にか落ちてしまっているなあと改めて思いました。
そこで、この聖句をどう解釈すればいいのかを考えるのでちょっと付き合ってもらえないかと、協力をたのみました。随分迷惑なカウンターのお客です。相変わらずカウンターには僕一人という状況でした。まあ、もう閉店前だったのですが。
最初に思いついたのは、最近の彼女の周囲での出来事でした。彼女には片思いの相手がいたのですが、最近、その男性に新しい彼女ができたらしいという出来事です。その報告がなかなか素敵な報告で、「新しい彼女があまりに素敵なので、自分の思いが片思いで終わって行くことが、本当に腑に落ちた。この恋とはきっぱりお別れできそうです」という報告だったのです。
例えば、自分の想いを成就する事だけに興味があったのでは、そんな報告にはならないように思うのです。そこには、自分の想いが犠牲になっても、大切な人にとって、本当にいいことが実現するならそのことを喜ぶという愛情があるように感じました。片思いの相手ではありますが、友として、その相手の幸せを喜ぶ姿があるのではないかと感じたのです。彼女の方は、全く腑に落ちていないようでしたが。
とにかく、「命を捨てる」とは、そういう、自分の思いを尊重するのではなく、相手のことを考えるということなのではないか、と説明しました。「命を捨てる」ではなく、「人生を投げ打って」とか「犠牲を払って」なら分かる?と聞いてみると、「うん、まあ、それならばなんとなく分かる」ということでした。
命とまではいかないが、犠牲を払った事がないか、今度は自分自身の経験に問いかけてみました。いつも、自己愛ばかりが先行して、我がままに生きているという事例ばかりが頭に浮かびました。それでも、何回かに一回は、自分が損をする決断を友のためにすることはあります。そういう決断をして犠牲を払うと、それ以上の大きな見返りというか、恵みがあることにも思い当たりました。
さて、この聖句は、そういう処世術的なことを伝えようとしているのでしょうか。
弱い僕らには、何回かに一回、自己犠牲を払って、及第点の愛情を示せたと自己満足する道も許されてはいるでしょう。しかし、この言葉を語っているイエス様の状況を考えてみると、全く違う感想を持ちます。この言葉を語った後、翌日にはイエス様は無実の罪で十字架にはりつけにされ、本当に死んでしまうのです。
イエス様の人生の中で、この言葉を読むと、本当に「自分の命を捨てる」というその言葉の通りの人生が浮かび上がります。イエス様は無実の罪で十字架にはりつけにされ死んで行きます。イエス様は人々の罪を償うためのいけにえとして自分の死を受け入れたのだという事が、聖書を読んでいると分かってきます。それは、私たちが、死を持って償わないといけないような罪を犯したとき、身代わりになって死んでくれる人がいる、すでに存在したということを意味します。そのことを信じれば、罪が赦されるということが聖書の中では約束されているのです。
そこには、当時のユダヤの民のいけにえの習慣や、罪は神に赦してもらうものだという価値観が存在するので、「イエスの十字架の死の意味」を、現代の日本に生きている私たちが、直感的に理解するのは難しいかもしれません。
ただ、「友のために自分の命を捨てる」この言葉をイエス様が自分の人生の終わりに語ったことを思う時、イエス様が、弟子を、あるいは広い意味ではキリスト教に出会う私たちを含む全ての人たちを「友」と呼んだのだということに気がつきます。
私たちを「友」と呼び、そして命まで差し出してくれるのです。ちょっと気持ち悪い話かな?嫌悪感を持たれるかな?と思いながらカウンター越しに説明をしてみました。
彼女は「うん、それはありがたいかもなあ。だから、そういう風に愛しあえってことね」と今度は意外にもすんなり話を受け入れます。僕が勝手に難しいと感じている部分は案外簡単なのかもしれません。どうやら僕は、すっかり「聖書おんち」です。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」
「これ以上に大きな愛はない」という愛はすでにイエス様によって示されている。それは、私たちに向けて示されている。まずはそのことを喜ぶことから始めればいいのかもしれません。
そして、わたしたちは、互いに愛し合うことを努力すればいいだけなのかもしれません。友のために、本当に自分のエゴを押し殺すべき時が来たときに、イエス様の言葉はその決断の勇気の源になるでしょう。損をしたと感じるのではなく、友を愛せる喜びを感じられる人でいたいなあと思いました。