愛するということ ヨハネの手紙1 4章12節(聖書の話4)

「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」
(ヨハネの手紙1 4章12節)

 今回は、「愛するということ」という大胆なタイトルをつけている。そんなに大層なことを語れる訳ではないのだが、僕が高校のキリスト教学の授業の中で話している内容をもとに、キリスト教が語る「愛」についてなんとなく考えていることを書き記してみようと思う。

「『愛する』ということが今ひとつどういうことか分からない」ということについて、学生に説明する為に、なぜ分かりにくいのかを考えたり調べたりした事があった。そして、その理由の一つに、「愛する」「愛される」「愛」という、この三つの違いについて、私たちが通常あまり区別せずに話をしているということがあるのではないかという指摘に出会った。
そこで、この三つの関係はどうなっているのかを考えてみることにした。まるで小学生のようだが、僕のイメージを少し説明してみようと思う。

まず、「愛される」について。「愛されたい」という気持ちが僕の中に確かにあり、それはまるでタンクのようだと僕は思った。そこで、それを「愛されたいタンク」と名付けてみた。次に「愛する」について。「愛したい」という気持ちもやはり自分の中にあり、それはまるで蛇口のようだと思った。そこで、それを「愛したい蛇口」と名付けた。そして、「愛されたいタンク」の下に「愛したい蛇口」がついているという設定にしてみたのだ。これは、僕だけではなく、すべての人に使える設定ではないかと思った。みなさんそれぞれの心の中に、蛇口のついたタンクがあるという感じだ。最後は「愛」について。誰かが愛してくれると、その人のタンクの中に水が入ってくる。この水が、「愛」ということになる訳だ。愛される時には、タンクで愛を受け取り、愛するときには蛇口をひねり、タンクに溜まっている愛を相手のタンクに注ぐというイメージだ。
この小学生のようなイメージを僕は大変気に入った。もし、そうだとすると、いろいろなことの説明が、簡単になるのだ。
例えば、愛されたのと愛したのではどちらが先か、というような質問にも、簡単に答えられる。当然、愛されたのが先だ。だって、生まれて来た時にはタンクは空っぽなのだから。誰が愛してくれたか。もちろん育ててくれた人、多くの場合、親という事になるだろう。子供をかわいがる親の説明をする必要はないだろう。僕の友達も、たのんでもいないのに、自分の子供の写真を見せてくれる。「我が子かわいい記録更新だ!」とばかりに、毎朝見せてくれる友人もいた。子供は、親にもらった愛情をタンクに蓄えて、初めて他者と関わる。例えば、公園デビュー。同年代の子どもと出会い、砂場で遊び、転んでしまった新しい友達に「痛いの痛いの飛んで行け!」と、初めて、自分から蛇口をあける訳だ。そこからは毎日の生活で愛情の交換が始まる。そして、大人になった私たちはもう、バランスを見ながら、出会う人の中から大切な人を選び、愛情の交換を日々行っているのだと思うのだ。
イメージはどんどん広がる。「ありがとうを言うのがへたくそなあの友達は、きっとタンクの水がエンプティー寸前で、愛を返してくれないかもしれない僕みたいなやつに簡単に愛情はそそがないつもりなんだな」とか、「大好きな彼との恋愛が終わってしまって、もう恋なんてしないと言い張るあの子は、恋愛をすると、彼から貰ったタンクの中の愛を使ってしまうからいやなんだな」とか。本題を超えて、水質の問題や水量、水の出し方の美しさなど、いろいろなことまで考えたくなってくる。でも、このあたりでやめておこう。

キリスト教は愛すること、つまり、蛇口を開けることを要求する宗教だと思う。「互いに愛し合え」と今日の聖句は私たちに伝えている。そうすれば、「神はわたしたちの内にとどまる」と続いている。タンクの状態がどんなに悪くても、愛する事をやめるなと言うのだ。なかなか厳しい要求である。
しかし、それこそが、キリスト教が世界に広がった理由、2000年生き残ってきた理由だと僕は思う。
もう自分のタンクには愛がないという状態でも、聖句に従って蛇口をひねるときに、奇跡は起こる。なかったはずの愛が蛇口からどんどん流れ出るという奇跡だ。蛇口を閉めて、タンクを確認しても、やっぱり空っぽだ。またおそるおそる蛇口をひねると水が出てくる。それはどういうことか。自分のではなく、神の愛が、自分のタンクと蛇口を通って出て来ているのだ。それは神に愛されていることを意味する。しかし、神の愛は蛇口でしか確認できないというわけだ。なんと実践的な宗教。決して、ご利益のように先行投資をしてはくれない、自分の身を切って、はじめて愛されていることが実感できるというキリスト教の厳しさに、深く納得をし、感銘を受けたのを思い出す。
もう一度聖句を読んでみよう。

「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」

互いに愛し合う決意をすれば、実行に移せば、いくらでも愛を与えると神は約束をしてくれている。わたしたちのタンクの内側に愛があふれる状態を約束してくれているのだ。その約束は真実の約束だと僕は思う。もう自分では愛せないと思っていても、勇気を持って蛇口を開けるとき、想像もしなかった和解の道が開けるというような経験をする。それは神様が働いたと感じる経験だ。
実践による確信の中で、私たちは神を感じるのだと聖句は伝えている。愛する事を怖がらずに実践できる人になりたい、そして、みなさんにもそうあってほしいなあと思う。