心のあるところ マタイによる福音書 6章19節~21節(聖書の話3)

「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」

(マタイによる福音書 6章19節~21節)

今回は、イエス様の言葉を通して、私たちの「心のあるところ」、私たちの心はどこにあるのか、について考えてみたいと思う。

僕は、同志社高校でキリスト教学という授業を担当しているが、その授業で「『生きて行くために本当に大切なもの』とは何ですか?」という質問を高校生にすることがある。20人くらいの学生にどんどん発言させて行くのだが、まあ、キリスト教の授業なので、最初は「友達」とか「家族」とか、「生きようとする意思」だとか、当たり障りのない答えを、気を使って答えてくれる。そして、ちょっと勇気のある頭のいい子が「愛」と答える。本当にそうか?これで生きて行けるか?と問うと、「住むところ」「食べ物」「着るもの」と続き、業を煮やした学生がやっと「お金」と答えるというパターンが多い。「愛」と「お金」が出てしまってからは、教室は随分リラックスした雰囲気になる。誰かが「空気」なんて言うと、「水」「酸素」とちょっとふざけた感じで泥試合のようになって行く。

「生きて行く為に本当に大切なもの」の答えを黒板に書き記して行くと、大きくは4つくらいに別れている事に気がつく。一つは愛に代表される人との関係にまつわるもの。もう一つはお金に代表されるもの、言い換えればお金で買えるもの。三つ目は生物として生きて行く環境を支えているもの。そして、生きて行く哲学のような自分のアイデンティティーを支えているもの。とは言え、やはり、この質問では「お金」か「愛」かの選択が迫られているという感じがする。授業で、この二つの言葉を学生から引き出すのに少し時間がかかることが多いのは、学生側も授業が求めている答えを直感的に分かっていて、そのことを正直に答えるのは少し恥ずかしいことだと感じているからかもしれない。
「やっぱりお金やろう」と僕が言うと、ちょっと意外そうな顔をしながら、同時に安心した表情を学生は見せる。キリスト教の授業だから「愛」って言わなければならないとどこかで思っているのかもしれない。

さて、今回の聖句をもう一度読んでみよう。

「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」

生きて行く為に本当に大切なもの、その全てを「富」という言葉に置き換えて考えてみる。私たちにとって「富」とは何か。やっぱりお金のような気がする。「お前の富を見せてくれ」と言われて、溜め込んだ通帳記入の残高を見せる事に、僕は恥ずかしさを覚えない。その残高の低さに恥ずかしさを覚えるくらいだ。
ところが、質問が「あなたの心はどこにあるのか」というものになると、気持ちは一転する。通帳をひろげて「ここに僕の心があります」は恥ずかしくて寂しい気持ちになるのだ。
「富はお金ですが、心は愛を大切にしています」と答えたい。しかし、聖書はそれをゆるさない。
「あなたの富のあるところにあなたの心もあるのだ」なかなか厳しい言葉だ。

自分が自分自身であるために本当に大切なものはなにか。そのことを自分の周囲や外側に求めることは、実は本当に恐ろしい事だ。それは、携帯を忘れて来たときに自分の一部が失われたような恐怖を覚えるのに似ている。私たちは、自分の外側に自分を持ってしまう。所有することで存在を確認しようとしてしまう。
お金は奪われてしまう。お金だけでなく、愛についても、誰かに「愛される事」によって自分を確認しよとすると、愛してもらえなければ、愛してもらえなくなれば、やはり、自分を失うことになってしまう。

「天に富を積む」という言葉はなかなか難しい言葉だが、「自分の存在が誰にも奪われない形で意味あるものになる、存在そのものに意味があるように生きて行くこと」と言いかえると、少しイメージする事が出来るかもしれない。
そういう生き方にとって一番大切なものが「愛」、もう少し踏み込んで言うなら「愛する」ということなのだと思う。「愛せている存在」という喜びと価値。英語で言うならto haveという所有することで自分の存在価値を確認するのではなく、to beという存在そのものに自分の存在価値を見いだすこと。「持っている」から価値があるのではなく、存在そのもに価値があるという自分を育てて行く事を、この聖句はうながしているように思う。そして、そういう自分は神様との関係の中で育っていくのだとイエス様は言っているのだと思う。

あなたは、何を自分の富だと感じているだろう。その富のあるところにあなたの心があるのだ。
自分の「心のあるところ」について、足を止め、ゆっくりと考えてみる時を持つことも必要だなと改めて思う。