恵みと真理(聖書の話2)

 

 先週に引き続き、聖書の話を少し。「恵みと真理」というタイトルだ。

「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」
(ヨハネによる福音書 1章17節)

今回は、少し、聖書という書物について分析し、そこからこの聖句の意味を考えてみようと思う。

この聖書という書物は、なかなかおもしろい書物で、大きくは二つに別れている。旧約聖書と新約聖書だ。
時間的には旧約聖書のほうがずっと古い書物である。ヘブル語で書かれた旧約聖書は、ユダヤ人と神との歴史を通して、神の教えを書き記した書物だ。オールドテスタメント。古い契約。それは、神とユダヤの民との契約であり、その歴史だ。
一方、新約聖書はギリシャ語で書かれた書物である。聖書を大きく旧約と新約という二つに分ける人物がいる。イエスという一人の青年だ。イエス様は新約にしか登場しない。今から2000年くらい前に、30歳ぐらいで十字架にはりつけにされて死んで行った青年。彼の人生と教え、その弟子たちの生涯や弟子たちによって書かれた手紙によって新約聖書は構成されている。ニューテスタメント。新しい契約。新約では、イエス様を通して全ての人と神との間に契約が結ばれる。

書きあがり、編集されるまでに1000年以上を要したこの聖書は、創世記で始まり、ヨハネの黙示録で終わっている。世の始まりから、世の終わりまでが書かれていて、その中心にイエス様の誕生があるという構成になっている。
そのイエス様の「誕生から十字架での死、生涯と教え」を書き記しているのが新約聖書の最初にある4つの福音書だ。福音書とは英語でゴスペル。グッドニュース。いい知らせのことだ。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ。それぞれのグループが「イエス様の教え、あるいは存在そのものが、世の中にとっていい知らせだ!」と思って書き記した書物が「~による福音書」だ。だから、事柄によっては同じ出来事で4回書かれているものもある訳だ。
今回の聖句は、福音書の中では一番後に書かれたヨハネによる福音書の1章。つまり、書き出しの部分にある。

「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」

みなさんは「モーセ」と聞いて、何を思い浮かべるだろう。僕は高校でキリスト教学の授業をしているが、学生に質問すると、だいたい二つの回答が返ってくる。「海を割った人」と「十戒」の二つだ。
今から3000年以上も前の人物であるモーセは、旧約聖書に登場する預言者であり、エジプトからユダヤ人が脱出したときのリーダーだ。民を導き、海を割ってエジプトを脱出するシーンが映画などになっていて、学生たちへのモーセに対する一問一答で「海を割った人」というイメージが出てくるという訳だ。
そして、もう一つのモーセのイメージ「十戒」。これも映画になっている。民のリーダーとして彼らを導くモーセが、神から授かるのが十戒である。
十戒は十の戒めからなっている「~をしてはならない」という教えだ。この教えがもとになり、さまざまな細かいルールがユダヤ教の中に作られていく。そして「律法」を守ることが神との契約を実現するための方法だと考えられ、律法を一生懸命守る人たちが神に喜ばれる存在だと考えられていく。
そんな旧約の世界にイエス様は登場する。
イエス様は、律法でがんじがらめになり、窮屈になってしまった世の中で、どこか不健全になってしまった神と人との関係に疑問を投げかける。本当に大切なのはそのような事ではない、という訳だ。
イエス様は、律法というルールではなく、自分が出来る全てで人を愛すること、隣人になることこそが大切なのだと主張し、実行する人生を送る。それは、時の権力者の否定となり、疎まれて殺されてしまう訳だが、彼を殺しても、伝わってしまった「本当のこと」を権力者たちは止めることは出来なかったのだろう。イエス様の教えはキリスト教となり、世界に広まることになるのだ。

もう一度聖句を読んでみよう。
「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」

律法はイメージできるが、恵みと真理とは一体、何の事なのだろう。

まず、恵みとは何か。イエス様は、生涯を通して隣人を愛する事を実践した人物だ。わたしたちは本当に愛された時に自分が存在していることを肯定されているという実感を覚える。イエス様が愛した隣人たちの多くは、自分の存在を肯定できない問題を抱えている人たちだった。愛されているという恵みがイエス様から人々へ示されたということだと思う。また、イエス様のように愛そうとすると、「愛せない」という現実、自分の弱さや罪に出会ったりする。愛されているという恵みとは別に、愛そうとしても愛せないという自分の罪を、イエス様が十字架にかけられ、身代わりとなって下さったことで、すでに赦されているというもう一つの恵みが新約の世界には存在すると言える。
次に、真理とは何か。ある時、礼拝でジュネーブ教会信仰問答という書物の紹介があった。カルヴァンが書いたその問答の最初の質問は「人生の主な目的はなんですか」だそうだ。みなさんはこの質問にどう答えるだろう。カルヴァンの用意した答えは「神を知る事であります」だった。人生の主な目的は神を知ること。イエス様によって現れた真理とは、そういう類いの事柄ではないかと思う。律法を守ることによってではなく、イエス様に出会う事で、私たちは神のことを本当の意味で知る事が出来るのだとこの聖句は伝えているのではないだろうか。

律法はわたしたちに「生き方」は提示してくれるかもしれない。しかし、わたしたちの存在を根底から肯定してくれるのは、「生き方」やその結果における成果ではないように思う。「わたしたちがただ『生きている』ことにすでに意味がある」ということ「生きていてもいい」ということ、その発見こそが恵みであり、その恵みが偽りではないという確信こそ真理の発見なのではないだろうか。