「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」
今回の聖句は、イエス様が十字架につく前夜の出来事、「最後の晩餐」を描いた聖書箇所の冒頭部分にあたる。イエス様が弟子たちと共に過ごした最後の夜だ。最後であることに気がついていたイエス様は、この夜、弟子達に遺言とも言えるメッセージを残している。
しかし、私たちは、多くの場合、自分の未来が見えているわけではない。別れの時はいつも唐突に訪れる。阪神淡路大震災が起こった後、僕はある曲を作った。「最後まで優しくなかった」という曲だ。まずは、その詞を紹介しよう。
「最後まで優しくなかった」
国道沿いにあった君の家で 別れになったあの日も喧嘩した
最後まで優しくなかった
突然電話が通じなくなって ふいにおしまいが僕らを襲った
最後まで優しくなかった
いったい誰が気付くのだろう いつが最後の時かなんて
壊れたビルは綺麗になくなって 僕の後悔は行き場をなくした
最後まで優しくなかった
街は新しい景色を手に入れ 僕に新しいものは何もなく
最後まで優しくなかった
いったい誰が気付くのだろう いつが最後の時かなんて
いったい何を築いただろう 僅かな時間の全てで
ずっとずっとあると思った いつまでも続くと思った
いったい誰が気付くのだろう いつが最後の時かなんて
いったい誰が
震災の時、僕は京都にいて、家族や恋人を失ったわけではなかった。それでも、友達のお父さんが亡くなったり、すぐ隣には、全く理解できないような突然のお別れが実際に起こっていた。この詞は直接震災を歌ったものではないけれど、非常に強く、当時の状況に影響を受けた詞だとも言える。
わたし達には災害を予知することは出来ない。それ以前に、自分がいつ死んでしまうかを知ることは出来ない。いつやってくるか分からない別れに、後悔を残さない為に私たちは何をすればいいのだろう。
最後の夜、イエス様の弟子達への遺言は「互いに愛し合いなさい」だった。なにか、きれい事のような、力の無い言葉に感じる人もいるかもしれない。けれど、この目に見えない不確かな行いこそが、震災後の復興において、もっとも力となり、今なお、人々が語ろうとする出来事だったとも言える。東日本大震災においてもそれは同じことだ。苦しみの中で助け合い、愛し合うことで苦難を乗り越えていく人間の姿だけが、あの悲惨な状況の中では希望につながる景色なのだと思う。
「今、隣にいる人が、隣にいるというそのことだけでも感謝すべきことだ」そんなことを考えながら生活するのはなかなか難しいかもしれない。ただ、今日は「互いに愛し合える」という喜びをかみしめる一日にしよう。そんなことを思った。